#Accompaniment01 White Room
リアル――現実と翻訳された言葉。
では彼女がいる世界はどこなのだろう。
リアルでありながら、リアルには程遠い場所。
「本当の私はどこにいるんだろう――。」
彼女は自問する。
しかし、答えを返すものなど――存在しない。
目を開いて真っ先に映るもの。
それは白い天井。壁に刻まれた無数の傷。
その殺風景なものを見つめながら、昴はゆっくりと身を起こした。
窓から差し込む光が、彼女の横顔を優しく照らす。
窓の外には青空が見えた。
手を伸ばせば、吸い込まれそうなほど澄み切った空である。
だが、それと裏腹に昴の心中は澄んではいなかった。
澄み切った青空には自由がある。
手を伸ばせば掴めそうな距離――だが、この場所は孤独以外の何ものでも無い。
201号室――
そこが昴に許された領域。
箱庭という隔離世界における安息の地。
廊下のほうから足音が聞こえる。
このヒールの音は担当である九重の物だろう。
「おはよう、昴。」
優しげな瞳。腰まで伸びた長い髪からはかすかに石鹸の匂いがした。
モデルのようなスタイルは、女である昴から見ても感嘆を漏らさずにはいられない。
昴はこの女が嫌いではなかった。
しかし、彼女が九重に返したのは、清々しい挨拶でも気さくな笑いでもない。
沈黙――。
「昴、また、だんまりなの?
おはようと言われたんでしょ?何とかいう事はないの?」
九重のこの反応はいつもどおりだ。
「ナントカ。」
九重が頭を抱える。
この反応もまた――いつも通りだ。
「コーヒーでも飲む?」
昴が棚へと向かうのを九重が制した。
「いえ、結構。それに、もう食事の時間よ。
コーヒーならば向こうで飲めばいい。」
「確かに。」
「それよりも、今日が何の日だかは忘れてないわよね?」
「......九重さんの年がプラス1?」
「残念、はずれ。」
九重は軽く笑いながら、鞄の中から何かを取り出した。
同時に昴の顔も僅かながら曇りを見せる。
「朝食の時間の後にいつもどおりのプログラムよ。」
プログラム――それは昴をこの世界に束縛するもの。
「うん。」
昴は無表情のまま、静かにドアを開けて出て行った。
朝食を取るためのホールは、ここからはそう遠くは無い。
今は、その束縛から少しでも遠くへと逃げ出していたかった。
16歳の少女・昴(コウ)の変わりが無い一日がいつものように始まる。
「わかるんだけどね......その苦しさも痛みも。」
一人残された九重もまた、ゆっくりと廊下へと歩みを進めた。
* * *
「よう、根暗の昴。」
昴が振り向くと、翠がいた。
そして、彼の担当である天狼も。
翡翠と天狼の関係は正に九重と昴のものと同じである。
「お前、プログラムどこまで進んだんだ?」
馴れ馴れしげに翠が昴の肩に手をかける。
そう言っている時の、翠には絶対なる自信がある。
恐らく、昴などとは比べ物にはならないだろう。
「翠には遠く及ばないよ。」
昴は、この言の葉が翠を満足さしめる物だという事を知っていた。
「ヘヘン、当たり前だろ?
オレは何処かの根暗とは違う、エリート様なんだからよ!!」
「それより、手を離してくれる?セクハラだよ。」
「チッ、無駄な知識だけは持っていやがる。」
翠が舌打ちをして、ホールへと向かう。
「そう、深く気にしないことだ。
プログラムは人それぞれで進行度が違う。
それの進捗度が、個々の優劣に関わる事は無い。」
クールな面影を持ちながらも、全てを凍てつかせるほどの冷静な声。
翠のコーディネーター――天狼。
「もっとも、優劣を問われるのでは、お前や翠ではなく――
オレや――。」
「私ですか?天狼。」
「九重か――。」
天狼の声を遮ったのは、九重その人だった。
「さぁ、昴。ホールに行きましょ?」
九重が昴に連れ立ち、ホールへと向かう。
その場には天狼一人が残された――。
「九重桜花――お前はいつもオレのプライドを傷つける......!!!」
天狼はその対象が消えたホールの扉を憎々しげに睨み付けた。
一応はミッション系の施設と言う建前だからであろうか。
存在するのかすら解らない神への5分間の祈りの後に、食事が始まる。
トーストとプレートに載せられた定番メニュー。
ここにはコーディネーターと被験者の差は全く無い。
「翠に何を言われたの?」
向かい合ったテーブルには九重がいる。
その姿は悩みを抱えた妹の相談にのる姉の様にも見えた。
九重桜花は24歳にして、この施設のコーディネーターとしては最年少に当たる。
16歳の昴とは姉妹といってもおかしくない程度の年しか離れていない。
優れた容姿と気さくな性格からファンも多いと言われている。
そんな彼女がこのような場所で何故働いているのかは昴には知る由もなかった。
「貴女には――。」
「貴女には関係ない、でしょ?」
いい終わるよりも早く、九重は昴の言葉を代弁した。
「全面的に信頼しろなんて言わないわよ。
でも、まぁ、ほんの5センチぐらいでも心の窓開けてくれたら、お姉さん嬉しいな〜」
昴は、その声をシャットアウトしながら、もくもくと食を進める。
説得を諦めた九重も、トーストを頬張る。
九重と昴にとっては何一つ変わらない日常であった。
覚醒施設――『箱庭』――それがこの施設の秘匿名称である。
一般的に、この施設の実態は公衆の目には触れられない。
行われている事が余りにも非現実的すぎるからである。
現政権の予算内における、特別費とのみ記された費用。
その金額は国家予算の10%を軽く上回る。
「昴。今日の予定は把握している?」
「メシ、風呂、寝る。」
「貴女は中年のオヤジ?」
「......11時からプログラム開始なんでしょ?」
「そういう事。
それまでにお風呂とかは済ませておいてね。
次に戻れるのがいつかは解らないから。」
「わかってる。いつもの事。」
「そう、いつもの事。」
食事の終了を告げるベルが鳴る。
この食事が終われば、再び彼女はあの白い部屋へと戻るのだ。
「それじゃあ、また後で・・・」
九重が準備のために自室へと戻っていく。
昴が、ただ一人無機質な廊下に取り残された。
ポスターの一枚すら見当たらない清潔を象徴するかのような廊下。
ここすらも、白で統一され、目を癒すような植物の類も置かれていない。
この閉鎖空間はすべてが白い世界だ。
銀世界のように美しくも無く、ただ無機質なだけ。
扉の開く音が静寂を切り開く。
昴は、無機質な自分だけの世界へ通じる扉を開けた。
浴槽に湯を流し込む。
一定の量がたまるまでの間、昴は窓へと歩み寄った。
窓の外を2匹の――つがいであろうか――鳥達が飛んでいく。
(私には彼らのような自由はない。
先生達は私達を選ばれた存在という。
でも、こんな日常が続くなら――)
昴はその先の言葉を、自分の奥底へとしまい込んだ。
所詮、叶わぬ夢ならば、口に出すだけ無情感が押し寄せる。
それは、あと時計の針が一回りでもすれば行われるプログラムにも支障を来たす。
タイマーのけたたましく鳴り響く音が、昴を困惑の螺旋から引き戻した。
「お湯...止めないと......。」
昴は慌てて風呂場へと向かった。
昴達には生活を送る上で必要なものは全て与えられる。
パソコンや音楽を聴くためのプレイヤー。
中には部屋を自分好みに改装した少女までいる。
しかし、その行為をいくらしようとも、彼らは篭の中の鳥に過ぎない。
昴はあえて、何かを望もうとはしなかった。
望むことは唯一つ――「自由」。
色気の欠片も無いワイシャツとスボンを脱ぎ捨てる。
既に浴槽からは湯気が漂い始めていた。
昴は何気なく自分の姿を鏡に映した。
鏡に映るその姿は、普通の女子高生と何一つ変わっている様には見えない。
「貴女なら、そういう格好をすれば、すごく可愛いのに・・・。」
九重はいつも昴にそう言う。
(でも、こんな場所で着飾る意味なんて存在しないじゃない。)
自分を包み込む煩わしい布切れを取り去って、湯気の中へと飛び込む。
湯船にその身を横たえながら、昴は僅かながらの安らぎに浸ることにした。
* * *
「昴?」
浴室のドアが突然開かれる。
「ほへ?」
自分らしくない間が抜けた声。振り返ると、九重のいつもの顔があった。
「大丈夫?」
「あ、すぐに出るから......!」
昴は自分の裸身を隠すためにカーテンを引いた。
用意しておいた服に袖を通す。
肩の辺りで切りそろえた髪を揃え、昴は浴室から出た。
「少しだけ遅刻、かな?」
椅子に座っていた九重が、昴のほうを向く。
「ごめんね。でも、すぐに始められるよ。」
「そう、なら行きましょうか。」
昴は九重の言葉に頷くと、彼女の後に続いた。
向かう先はプログラム調整室、唯一つ。
プログラム調整室――とは名ばかりで実際には椅子が一つだけ置かれた何も無い部屋である。
「それじゃ、いつも通りに行くわよ。」
昴が椅子に腰掛けて頷く。
それを合図に、隣室の九重が装置を起動させた。
暗転――白い部屋が一瞬で闇に包まれる。
『プログラム・ダブルクロス――スタート』
機械音がプログラムの開始を宣告した。
「それじゃ、向こうで、また会いましょう。」
昴は九重の声が遠くで聞こえるのを感じていた。
闇の中へ昴の意識が落ちていく――。
九重はそれを見届けると、静かに部屋を後にした。
ただ一言の言葉を残し――。
「はじめましょうか、舞踏会(マスカレイド)を――」 |