静かな部屋であった。
ここは院の最深部――通称、四神の間である。
そこには二人の人影が見えた。
篠崎兵衛――そして、古めかしい姿をした女性――院の最高司令官、御前である。
「そうですか、裁定者は能力に――」
眼を瞑ったまま、御前はゆっくりと言葉を発した。
彼女の年齢は不詳である。篠崎が覚えている限りでは10年前も同じ姿であった。
遡れば、歴史の所々で同じ姿の御前を見つける事ができるかもしれない。
もっとも、御前に面会できる人間など数えるほどしかいないのではあるが――
「狩猟者との交戦が成長のきっかけとなった模様です。」
「ですが、まだ足りないのですね?」
「はい、恐らく断罪者と戦わせても敗北は必至かと。」
御前が着物の裾を擦りながら窓の外を見る。
「雨ですか――。」
「予報によれば、今夜一杯は降り続けるそうです。」
御前が軽くため息をつく。
彼女は雨が嫌いであった――。
「篠崎。」
「ハッ!」
篠崎が姿勢を正す。
「……裁定者に常時護衛はつけているのですね?」
「はい、絶対に裏切ることのない、私が最も信頼する二人を。」
「ならば、今は少し様子を見ることにしましょう――。
そして、もう一つ頼まれてもらえますか?」
「何なりとお申し付け下さい。」
「精霊音素を召集します。」
その名が御前の口から発された時、紛れも無く何かが動いた。
一枚のスクリーンの前に一人の男がいる。
緋村圭――政府三軍を束ねる統長である。
緋村は能力者であった。
『戦闘機構(バトル・オーガズィネイション)』。
その能力は文字通り戦略地図である。
緋村には自分の周囲の能力者全ての情報を把握することが出来た。
その膨大なデータ収集は、緋村自身の情報処理の能力がなければ把握などままならないであろう。
緋村はいくつかの点の中で、ひときわ大きく輝く一つの点を見つけた。
その能力はゆれる事がなく、巨大な点として――円としてスクリーンに示されていた。
「デカいな。」
緋村には声を発した人物が誰かの見当はついている。
それ以前に、この部屋には入れる資格を持つものはわずか三人のみ。
「斬りたいか?」
「ああ、ゾクゾクしてたまらねぇ。」
そう言うと竜崎直弥は円を睨み付けた。
竜崎直弥は政府三軍の一つ『龍牙(ドラグーン)』の総長である。
(その戦闘能力は政府一、いや隔絶世界に存在する人間の中では最強とも言える――
だが、竜崎は――)
緋村の現在位置を示す青い点。これは緋村が味方と設定した者だという意味である。
しかし、緋村の近くには青い点は見当たらない。
(そうだ、竜崎直弥は能力者じゃない――。)
竜崎は自分の腰に下げた鞘を軽く握ると舌打ちをした。
「どいつもこいつもクズばかりだ。
能力?そんな物に頼って勝利を掴む?馬鹿げてる。」
最強ともいえる竜崎のコンプレックス。敵対能力者に対する異常なまでの執着。
そして、何よりも戦闘行為を心から愛する性格。
いくら三軍を統括する立場にいる緋村であっても、この男だけは飼い慣らして置ける自信がなかった。
竜崎がスクリーンに背を向ける。
「どこへ?」
「大体の位置はわかった。ツラだけでも見てきてやるよ」
そう言うと、竜崎は暗い廊下へと足を踏み入れた。
(強いなら強いでいい。勝てない相手ならばそれでもいい。
この俺がそれを乗り越え、最強になるだけだ)
何処までも力を追い求め、敵対者を容赦なく切り倒す。
竜崎直弥はいつしかこう呼ばれていた。
「赤き狂犬(Crasy Dog with Blood)」と。
悲鳴が聞こえる。
その悲鳴を奏でているのは一人の男だ。
そして、その編曲者は言うまでもないだろう――双夜水月だ。
程なくして、その声も途切れる。
「水月。」
闇の中から、同じ色のスーツを着こなした男が現れる。
「神威か。」
「運命は我々の行為の半分を支配し、他の半分を我々自身にゆだねる――マキャベリ」
先人による多くの格言――神威と呼ばれた男の口癖である。
別に彼は先人達に畏怖を込めて言葉を発しているわけではない。
ただ、何となくなのである。狗狼神威とはそういう存在であった。
「何が言いたい。」
「我々とて、運命には支配されている。
そして、その支配された中で選択肢を選んでいる。いや選ばされているのかもしれない。」
「何が言いたい――神威」
水月が同じ問いかけをする。
「運命が選択肢を運んできたという事ですよ。」
神威が声を殺しながら笑う。
だが、次に発した4文字は絶を震え上がらせるには十分であった。
「精霊音素」
少女が笛を吹くのを猫は見ていた。
猫は少女が大好きだった。
猫は少女が奏でる旋律を聞きながら、少女の脚にじゃれ付いた。
少女がその顔に笑みを浮かべながら、猫の喉を撫でる。
気持ちよさそうに体を震わす猫を抱き上げながら、少女は演奏をやめた。
#05 Elemental Distortion
「人参一番、買ッテ来イ!!」
人あらざる者の声が部屋に響く。
廊下を掃除していたメイド――雪代夏実は思わずその声に身を竦めた。
何かが壁に叩き付けられる音。
誰が想像しただろうか。
その声の持ち主が巨大なウサギだと。
誰が信じたであろうか。
叩き付けられた誰かが、この世界を救うかもしれない裁定者サマだと。
「痛いじゃないか!」
浩介は自分を壁に叩きつけた未確認物体へと抗議の声を上げた。
「五月蝿ェ!コノぱしりガッ!」
こうなったのには勿論理由がある。
真尋との会談終了後、浩介は院へと疲れた体で帰還した。
風呂に入りたいという桜花と別れ、彼は自分に宛がわれた部屋へ向かっていた。
院は只でさえ広い。
更には収容されている人数も多い。
浩介はどうやら相部屋になるようだ。
(一体、どんな奴なんだ……)
部屋の名前を知らせたメイドの哀れみが篭った視線。
部屋の名前を聞いた章吾がコップを落とすほどの衝撃を受けた意味。
内に蠢く疑惑を胸に浩介は、終に自分の部屋を見つけた。
コン、コン――。
ノックをしても、反応はない。
(誰もいないのか?)
浩介はそう思いながら扉を開けた。
「先手必勝ダァァァァァ!!!」
浩介の目には白い謎の物体が猛スピードで突っ込んでくるのが見えた。
「何だ、こりゃぁぁ!!!?」
白い物体の拳――肉球が浩介の腹を打つ。
浩介が相手を知覚するよりも早く、相手の第二撃が浩介を襲っていた。
短い脚による蹴りの威力が壁程度なら容易く砕くと誰が予想しただろうか。
咄嗟にガードした浩介の腕は鈍い音と共に砕かれた。
(こいつ、狩猟者か!!)
浩介は桜花がいない事を悔やんだ。
しかし、その間にも敵は次の一歩を踏み出そうとしている。
(止まったら、負ける――!!)
浩介は後ろへと跳躍しながら、己の力を発動させた。
『風の――律動(シルヴァリズム)!!』
だが、それよりも早く――
「人参一番飲メッ!!!」
謎の嬌声と共に繰り出された一撃が浩介の意識を奪っていた。
「ハハッ、大シタコトナイナ。」
白い物体――うさひこは短い腕を組みながら勝ち誇っていた。
彼は同居人を己のパシリにする為にこの戦いを挑み、そして勝利した。
つまり、ここで倒れている名も知らぬ男は、今この時から自分の忠実な奴隷なのだ。
「わくわくシテキタゼェ!!」
つまり、うさひこにとって、この男が命令を聞くのは当然だという訳だ。
どうやら別室を与えられているらしい桜花がいない今、浩介にはこのウサギに逆らう術はなかった。
「わかったよ……行けばいいんだろ。」
半ば不貞腐れた態度で浩介が立ち上がる。
「それで何を買ってくればいいんだよ。」
「命ノ水ダ、人参一番〜〜!!!」
うさひこが奇妙なメロディをつけながら叫ぶ。
浩介は、肩を落としながら部屋を出て行った。
どう見ても、その姿は只のヘタレにしか見えないのが哀愁を誘う。
こうして、葛西浩介の院における生活が始まった。
「よぅ。」
自販機の横に見知った顔が見えた。
浩介も軽く手を上げてそれに応じる。
「寝れたか?」
章吾が浩介の疲れた顔を見てか、そう問いかける。
だが、疲れた原因は不眠ゆえでない事は、浩介の顔から判断したようだった。
「まぁ、その、なんだ?南無。」
(縁起悪いな・・・。)
そう思いながら、浩介は自販機に目を向ける。
コーヒーやお茶、ありきたりな物の中で一つだけ異彩を放つ物体がある。
(自販で物を買うのが恥ずかしいのは初めてだ……)
財布から、100円硬貨を取り出す。
「何買うの?」
章吾が缶コーヒーを飲みながら横に立つ。
(来るな、見るな、恥ずい)
頭の中を無数の感情が駆け抜けていくのが感じられた。
例えるならば、中学生が夜中に自販機で年齢不相応なものを買うような感情であった。
浩介は黙ったまま、ボタンを押す。
ガシャン。
心地よい音と同時に、その物体は世界へと解き放たれる。
「に、人参一番……。」
章吾の顔が引きつるのは見なくてもわかる。
「お前が飲むのか?」
「同室の未確認生命物体が御所望でね。」
章吾が納得したように肩を竦める。
「よりによってアイツと相部屋なんてな。
お前、ついてないの限度を越えすぎてるぜ。」
そう言うと、章吾は空になった缶コーヒーをゴミ箱へと放り投げる。
カラン、という音を立てゴミ箱に入った缶を眺めながら、
浩介は、人参一番を投げ捨てたい衝動に駆られた。
「人参一番。
それを“飲める”のは俺の知ってる限り、あのウサ公だけだ。」
浩介はため息をついた。
そうしないとやっていられない気分だった。
「上場すらしてない小規模な会社が作った野菜ジュースなんだが。
俺も一度飲んだんだよ。試しに、な。」
そこまで言って章吾が顔をしかめる。
味を思い出しているのだろうか。苦虫を潰したような顔をしている。
「どんな味だった?」
「赤いヘドロ。」
時計を見ると、あの場所で10分以上費やしてしまったようだ。
章吾は別れ際に、「頑張れ」と言って去っていった。
(一応アイツは味方なんだよな。
俺は裁定者なんだよな?)
自分に自問する。
(なら、あんな奴にへいこらする必要はないじゃないか!)
「いいか、俺が上。アイツは家畜だ。」
そうわざと口に出しながら、浩介は自分の部屋のドアノブに手をかけた。
「遅ェジャネェカヨ!!!ヴォケガァ!!!!」
ドアを開けた瞬間に飛び込む白い物体。
浩介はやはり、自分の立場に疑問を憶えながら宙に舞った。
* * *
少女は窓からその光景を見ていた。
笛にそっと口をつけ、旋律を紡ぐ。
浩介が頭を振りながら、立ち上がる。
少女と浩介の視線が交差した。
浩介の瞳が驚愕の為か見開かれる。
「君は――。」
言い終わるよりも早く、白い物体が浩介を吹き飛ばす。
少女の視界から浩介が消えた。
少女がクスリと笑う。
少女のお付きのメイドである雪代夏美も思わずその光景を見て微笑んだ。
「そろそろ、お部屋に戻りましょうか。
美味しいハーブティーを用意してありますよ。」
「そうね、行きましょうか。」
少女が窓に背を向ける。
「帰りましょう、夏美さん。」
「ええ、“壱与様”のお好きなオレンジケーキもありますからね」
* * *
「嘘だ…」
浩介の頭の中をその言葉だけが駆け巡る。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ」
どうして自分が愛したあの少女がこの異世界にいるのか。
(いや、他人の空似だ――あの少女は死んだのだから)
「どうしてここにいるんだよ……壱与!!!」
「イーヨー?テメェハ耳ノ垂レタロバカ?」
うさひこが何か呟く。
だが、浩介の耳にその呟きは聞こえてはいなかった。
* * *
「ハハハ、ハー…。」
ヘルは思わずため息をついた。
「クソ、裁定者のクビを切り刻む前に、結界とか言う邪魔者がいるとはよぉ……。」
事もあろうか、ヘルがいるのは院である。
背後には無惨にも首を砕かれた男達。
院のセキュリティにひっかかるよりも早く、男達はヘルに命を奪われていた。
「気にくわねぇ、気にくわねぇ、気にくわねぇんだぁぁぁ!!!」
ヘルが怒れるままに結界に拳を振り下ろす。
「確かに能力者は気に喰わないな。」
「なんだ、テメェは?」
ヘルが振り返ることなく背後に現れた気配に声をかける。
気配の主はその問いかけには応えない。
「誰なんだ、あぁん?」
苛立ったヘルは再度同じ問いかけを発する。
「院の者じゃない。ただの物見遊山さ。」
「ほう…そこの死体が目にはいらねぇのか?」
「死体?見慣れてるんでね。」
気配の主――竜崎が刀に手をかける。
「面白い、肉弾戦か!」
ヘルが喚起の声を上げる。
「能力者は気に喰わん。だが、業はもっと気にくわねぇのさ!!」
鍔鳴りの音が戦闘開始の合図となった。
* * *
「ヒャアアアアハァァァァァ!!!」
ヘルが叫ぶと同時に大気が歪む。
竜崎は敏感にそれを感じ取って咄嗟に身をそらした。
「カンが良いじゃねぇか、なぁ、オイ!!」
ヘルが嬉しそうに叫ぶ。
ヘルもまた竜崎と同じ――戦闘狂。
「俺の『紫眼(パープルアイズ)』を避けるとは随分と味な真似してくれやがる!!」
(コイツ――じゃないな。緋村の『戦闘機構』に映ってたデカイのは)
竜崎が繰り出した刃をヘルが素手で受け止める。
いや、それは厳密には素手ではない。
手の僅か数ミリの場所で竜崎の刃は止められていた。
ヘルがニヤリと笑う。
「『紫――』」
「黙れ、クソ虫野郎が――!!」
竜崎の蹴りがヘルの胴体にめり込む。
「『眼――!!!』」
だが、ヘルはそのまま躊躇うことなく能力を発動させた。
地煙が辺りを覆う。
「粉々になったかァ?」
「いいえ、残念ながら。」
静寂を破ったのは女性の声であった。
「どなたかは存じませぬが、早くお逃げになってください。」
夏美が竜崎へと警告を発する。
だが、竜崎はその言葉を無視し、刀を握った。
「ふ・ざ・け・ろ!!!」
竜崎が駆ける。
だが、見えない壁が竜崎の行く手を阻んだ。
「『反逆者達の防衛線(レジスタンス・ライン)』」
「なるほど、テメェがこの腐れ結界の術者か」
「だとするならば?」
「腸引きずり出してやるよォ!!!」
ヘルの瞳が紫色に光ると同時に大気が再び歪んだ。
「なるほど、不可視の衝撃――。」
しかし、ヘルの生み出した歪んだ波動は夏美の翳した手の前で制止する。
「パクリがぁぁぁぁ!!」
ヘルが吼える。その怒りに呼応するかのように歪みが同時に出現する。
「まとめて拉げろ――轢殺の紫眼!!!」
解き放たれた波動が夏美の結界へと激しくぶつかる。
「ク――!!」
夏美の顔にも焦りが見られる。
それはもっともな事である。言うならばガラス窓にコンクリの塊を叩き付けている様なものである。
「夏美さん!」
更なる声が場を乱す。
それは夏美と行動を共にしていた少女である。
少女が笛を吹く。すると、ヘルが発生させた力場が消失した。
「どうなって――やがる!!」
「貴方の能力に干渉させて貰いました。」
「干渉だぁ!?」
少女はヘルの剣幕にひるむ様子も見せない。
「意味わからねぇんだよ、轢殺の紫眼!!」
「『精霊音素(エレメンタルディストーション)』」
少女が奏でた笛の音色がヘルの放った力場を消失させる。
「うぜぇ、うぜぇ、うぜぇ、うぜぇぇぇぇ!!!」
ヘルが駄々をこねた子供のように暴れる。
だが、暴れながらもヘルは力場を発生させ続けた。
夏美の結界にすら押し勝ったヘルの力場である。
少女がどのようなトリックを使おうが、最終的には力で押し切れる。
ヘルはそう考えていた――もっとも、相手が少女と夏美だけなら彼の目論みは成功していただろう。
「最初の喧嘩の相手を間違えるなよ?」
ヘルが気づいた時にはすで遅く、背後から忍び寄った竜崎の刃がヘルの腹を薙いでいた。
「グァァァァァァァァァ!!」
ヘルが怒りの咆哮を上げ、腕を振り回す。
「殺してやるよ、クソ人間どもが!!!」
竜崎はその腕を交わしながら第二撃の機を狙う。
「止めなさい、ヘル。」
だが、何処からか静かな声が聞こえた瞬間、竜崎は反射的に飛びのいていた。
「貴方の能力ではターゲットすら傷つけてしまう。」
「ターゲットォ?」
「精霊音素の少女。我々の側においておきたい鍵の1つ。」
夏美が姿見せぬ声から少女を守ろうと立ちはだかる。
だが――
「遅いですよ、えぇ。第一、私は既に貴方の背後にいるのですから。」
音も立てずに何かが通り過ぎていく。
夏美がその身にそれを感じた時には既に彼女の体は崩れ落ちていた。
「はじめまして、精霊音素。存じておられるかもしれませんが――」
男は其処で言葉を切り、顔を上げる。
「ナインオブナイヴス。狗狼『神威』と申します。」
* * *
(気にいらねぇなぁ……)
優雅に会釈する神威を横目にヘルは心中で呟いた。
ヘルは神威の全てが嫌いであった。
似非紳士然とした言動も、何気なく交わす言葉も――。
「我等が主が貴女との面会を望んでいます。」
「主――断罪者ね?」
「如何にも。」
「お断りするわ。何を好んで世界の敵と行動を共にしろと?」
「ならば――」
神威の目が倒れ伏した夏美へと移る。
「彼女を殺しますよ、貴女のお仲間を。」
少女の体が雷鳴に撃たれたかのように震える。
「もう一度聞きましょう……ご同行願えますか?」
少女が歯を食いしばりながら頷こうとする。
だが、それよりも早く何者かが夏美の下へと駆けていた。
竜崎は夏美を抱えあげると同時に神威めがけて刃を振るった。
虚を突かれた神威の一瞬の隙を狙い、竜崎が踏み込む。
だが、第二撃はもう一人のナインオブナイヴス――ヘルに阻まれる。
「生憎、貸しを作ったままなのは癪なんでな。」
竜崎はヘルから眼を離さぬまま、夏美を大地に寝かせた。
「喧嘩の続きと行くか?アァン?」
「いえ、外野に動かれると目障りなので。」
乗り気なヘルを神威が遮る。
「宴会と同じように、人生からも飲みすぎもせず、喉が乾きもしないうちに立ち去ることが一番良い――アリストテレス。
あなたは見逃された時点で逃げているべきだった」
神威が竜崎へと手を翳す。
その手から放たれた不可視の衝撃が竜崎を大地に転がす。
直撃を辛うじて交わし、刃を杖代わりに立ち上がろうとする竜崎を一瞥すると、神威は少女へと目を向ける。
「人質が…増えましたね。」
少女の手が怒りと悔しさに震える。
「待ちな…誰が人質だ…!?」
プライドを逆撫でされた竜崎が刀を構え神威へ詰め寄る。
「つくづく面倒だ。ヘル、任せますよ。」
「殺っても?」
ヘルの拳と竜崎の刀がぶつかり合い火花が散る。
「虫けらの命に配慮する必要がありますか――『誘うは凝視の束縛』」
そう呟きながら、神威が少女へ向けて束縛の術式を放つ。
少女は抵抗する事をしなかった。
「良い心がけです。」
神威が覚めた笑みを浮かべながら少女を抱えあげる。
「我々は第13地区の廃工場にいます。
もし無事でいられたらお仲間に伝えてあげると良い。」
竜崎が言い放たれた言葉の意味を確認するよりも早く、ヘルが迫る。
「死にな、クソ野郎がァ!!!」
その手が不可視の衝撃を複数発生させる――それを紛れも無く竜崎は感じた。
「生憎、何度も地に転がる趣味はなくてな。」
解き放たれるよりも早く、竜崎がヘルの背後へと回り込む。
斬――煌く白刃がヘルの肩を凪ぐ。
ヘルが怒りの声を上げながら、再び能力を発動させるが、それら全ては竜崎へと届かない。
天武の才を持つ戦闘のプロフェッショナル――それが竜崎直弥であった。
ヘルは幾たび能力を発動させたであろうか。
「お前、馬鹿か?ワンパターンじゃガキすら倒せないぜ」
竜崎が刀を肩に乗せながら傷だらけのヘルを挑発する。
「ならば、ブッ潰れろォ!!!圧殺の――」
誰もが認める単細胞なヘルが挑発に乗らない訳は無い。
竜崎の周囲を丸ごと呑み込む上空からの衝撃――圧殺の紫眼。
だが、その巨大さゆえに――
「スロー過ぎるんだよ、阿呆が!!!」
凝縮された衝撃波が自由落下を始めた時には、竜崎は既にヘルの懐にいた。
* * *
左腕が宙を舞う。
竜崎が切り落としたヘルの腕である。
咄嗟に背後に下がり、心臓への直撃を免れたヘルが怒りと苦痛が混じった目で竜崎を睨みつける。
「テメェ――名前は。」
「竜崎。」
「それは苗字だ、馬鹿がァ!!!」
ヘルが自棄を起こし叫んだ。
「だが、竜崎か……覚えたぜ、貴様は俺が――」
「逃がすとでも?」
竜崎が駆け、間合いを詰める。
「逃げるんじゃねぇ!報告に行くんだ!!!」
ヘルが竜崎を5本の指、其々で指差す。
「銃殺の紫眼!!!」
指先から放たれた小規模高密度の衝撃を竜崎が全て避け切った時には、
ヘルの姿は既に目視の彼方にあった。
「それを逃げると言うんだ、阿呆。」
腹いせとばかりに斬り捨てられたヘルの腕に唾を吐きかける。
「報告――か。面倒だが、しておいてやるか。」
そう言うと竜崎は夏美を抱え、院への長い階段を駆け上がり始めた。
* * *
院のホットラインに一通の電子文書が届いた。
この文章は、後に院全体のコンピューターに一台とたりとも抜ける事無く送付される。
『精霊音素、投馬壱与。狩猟者により誘拐さる。』
届けられた文章に目を通すと篠崎はそれを握りつぶす。
軽くため息をつくと、伝声管のスイッチをオンにした。
「事態は最悪だ。
直ちに会議を始める。全員、鳳凰の間に集結せよ!」
会議が始まってから終わるまでの間にどれだけの時間がかかるであろうか。
(ロスが大きすぎる。巨大すぎる組織というのも考え物だな。)
その時点で、篠崎の頭の中には壱与を救出する為のプロットが完成していた。
それを踏まえたうえで篠崎は携帯電話の短縮番号を押す――見慣れたあの番号を。
「またお前の手を借りる事になりそうだ、幻殺者。」
ワイングラスの音が、受話器を通して聞こえる。
「いよいよ、戦争の時か?」
「精霊音素が奪われた。」
「つまり――。」
「ああ、全面戦争の序曲が今奏でられ始めた。」 |