「綺麗ナ月ダ。」

月を眺めながら、片言の日本語を話すウサギがいた。

ウサギという表現は当てはまらないかもしれない。

だが、彼は紛れも無くウサギであった。

うさひこ。院に所属する二足歩行、かつ人語を解するウサギである。

彼は同室になるはずであった男を待ち続けていた。

己のパシリにする為にである。

だが、その男は姿を見せるどころか、院にすらまだ到着していない。

「初メテ会ウクセニ、態度ガでかイジャネェカ…!!!」

ウサギは理不尽な怒りをつぶらな瞳に込め、月を睨みつけた。


その隣室では時計の音以外は何かを書く音だけが響いていた。

篠崎兵衛と霧崎章吾である。

理不尽なまでに積み重ねられた始末書を章吾は癖字で一枚一枚潰していった。

「そろそろ、か...。」

「アン?」

篠崎が突如呟く。

篠崎は真尋とは既に面識があった。

その時に、彼は狩猟者の動きについて知らされたのだ。

それは、彼が浩介と会う直前の事であった。

その数十分後、篠崎は浩介と会うことになる。

その時に篠崎が見た第一印象は“弱い”の一言であった。

浩介は裁定者としての責務を負うには弱すぎた。

腕はもちろんの事、決意も覚悟も――。

だから、篠崎は少々手荒な方法を選ぶ事にした。

(もし、裁定者が動けば、狩猟者も間違いなく動く)

荒業かもしれない。だが強さを身に着けるには経験をつむしかない。

それをもし、目の前の若者が知ったならば、この男はすぐにでも駆け出すだろう。

それでは浩介の修行にはならない。

だから、篠崎はこうして彼を止めている。

しかし、このカンだけが異常に鋭い男の事だ。

恐らく、漠然とは気付いているだろう。

(今ならば、頃合かも知れんな。)

篠崎は章吾が一枚の始末書を書き終えるのを見計らって声をかけた。

「裁定者が気になるか?」

「奈央がついているとは言え、アイツはまだ色々な面で弱い。

もしも、そんな折に高位の業に遭遇してみろ――。」

「行きたいか?」

「当たり前だ!」

「始末書が全てリセットされたとしても、か?」

「……やっぱ、お前性格悪すぎるぜ。」

(今はこれでいい。)

今の浩介には奈央と御堂真尋もついている。

瀕死の傷を負っても奈央がいれば治療は可能だろう。

真尋がいれば粗方の脅威は退けられるだろう。

浩介は成長しなければならない。

来るべき断罪者との決戦の為にも――。

「お前は、友よりも始末書を選んだ。そう伝えておこう。」

「うがああああああああ!!!」

悲鳴と怒号を余所に篠崎は真尋へと思いを馳せる。

「『幻殺者・御堂』。お前にはまた、後味の悪い思いをさせてしまうかも知れんな。」


    #04 Nightmare - Through all eternity even if you die - 


伊織は覚えている。

あの男が何かを仕出かした所までは。

だが、どうして今の自分はこんな南国にいるのだろう。

波打ち際の砂浜。飲みかけのフルーツジュース。

これは夢なのだろうか。

以前から自分が望んでいたような光景がここにはあった。

砂を踏みしめる音がした。

(敵――!?)

だが、そこにいたのは裁定者と異空間にいるはずの虚空であった。

「伊織――」

「虚空...?」

しばしの間無言で見詰め合う二人。

虚空が何も言わず、自分の事を抱きしめる。

伊織は何も言う事も動く事も出来なかった。

これも、また自分が望んでいた事なのだ――。

仮に夢であっても、拒みたくは無かった。

(3つの願いを言ってみるがいい。

どれか一つぐらいは叶えられるかも知れんぞ?)

対峙していた筈の男の最後の言葉が頭に浮かぶ。

彼は何を言っていたのだろうか。

静かに揺れる波も、狂おしいまでに赤い太陽も何も答えてはくれなかった。

「大好きだよ、伊織――」

耳元で虚空が囁く。

伊織はその言葉に酔いしれている自分がいる事に気づいた。

(夢でもいい。

今はこのまま――)

誂えた様に太陽が沈む。

世界が夜になる。

伊織はこのまま愛される事を望んでいた――。

誰かの声がする。

その刹那、二人の周囲に無数の人影が現れる。

人々は松明を持ち、口々に叫ぶ。

『狭間を、異形なる存在を狩れ――と。』

虚空は動かない。自分も動けない。

男達が自分達のほうへと松明を投げる。

虚空が生きたまま焼かれていく。

(どうして動かないの!?

虚空なら、こんな奴ら――!!!)

虚空は伊織を庇うように抱きしめながら、ただ己を傷つける焔に全てを任せていた。

人が焼ける臭い。それは狭間であっても人であっても決して変わらないだろう。

狭間も人とは殆ど変わらない。

(誰も何もわかってないんだ......。

私達だって、被害者だってことに――!!!

どうして――

私達だって普通に生きていたいのに!!!

どうして、大切なものを奪おうとするの!!?)

迫害者達の焔が自分へと近づけられる。

その瞬間、伊織は自分の中で何かが壊れた気がした。

伊織が無意識のうちに唱えた術式が迫害者達を砕いていく。

しかし、迫害者達は何処からとも無く湧き続ける。

そのたびに伊織は術式を放つ。

声にならない悲鳴と共に――。

『誘うは連鎖する自壊』。それこそが伊織の切り札であり、高位に属する術式であった。

対象を中心に連鎖的な内部崩壊を誘発させる。

いわば、相手の体内で爆弾を爆発させるのだ。

一般人と同じ迫害者達は防ぐ事すら出来ずに爆ぜていく。

伊織は目の前からすべてが消えて無くなるまでそれを繰り返し続けた。


全ての音が消えた時、そこには伊織しかいなかった。

無数の屍が積み上げられていた。

自分は血の海の上に膝をついていた。

「どうすればいいの、虚空――。」

彼女は気丈に振舞っていたが、実際は中学生程度の年齢である。

己一人で全てを受け止める事などできる筈も無かった。

その時、声が聞こえた。

彼女が大好きな虚空の声が――。

「この惨状を見ろよ。伊織。

これでも僕達は人間と同じなのだろうか。」

虚空の声はいつもと違い、彼女の事を責めていた。

「僕達は本当は滅びるべきなのかもしれない。

このようにね――。」

その言葉を最後に、虚空が爆ぜる。

そして微かに残る塵も、風によりすべてが流されていった。

「イヤ――イヤ――いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

砂浜には、無数の遺体と波の音、そして、少女の泣き叫ぶ声だけが残された。


     * * *


伊織が次に目を開けた時、それはただの路地であった。

迫害者達も、虚空もいない――。

「夢......?」

「違う、私が作り出した幻影だ。」

半ば放心状態の伊織が目の前の真尋へと問いかける。

全ては夢であったのだろうか――。


「何が起きたというの?」

奈央が沙穂へと答えをせがむ。

「望みすぎること。強欲たる事。原罪の一つ。Greed。

真尋様の能力はまさにそれなのです。」

「望みすぎること?」

「人は夢を見る。多くを望みたがる。

真尋さまの能力は、その夢を実現する幻影。

一見理想的かもしれません。

夢は確かに僅かな時間でも叶うのですから。

金を望むのならば、多くの金の上にいるでしょう。

愛を望むのなら、愛しい人が目の前にいるでしょう。

でも、それら全ての夢は砕かれる――。

自分が最も、大切にしている物によって。」

沙穂が目を伏せる。

「真尋様自体がこの能力を忌み嫌っています。

余程の事が無い限り、使う事は無いのです。

この能力は相手の精神すらも容易に砕いてしまう――。」

そう言うと、沙穂は伊織を見つめた。

あの少女もしばしの夢に取り付かれ、そして全てを壊されたのだろう。

真尋が生み出した幻影の世界で――。

それこそが真尋の二つ名『幻殺者(マインドブレイカー)』の由縁である。


真尋は今攻撃をすれば、この少女を容易に倒せる事は知っていた。

だが、真尋はそれをする事はしたくなかった。

もし、してしまえば自分は最低の領域にまで落ち込んでしまうからだ。

(私は常に紳士でありたい。

それなのに、この能力はそれと相反する事を私に課す――。)

もし、少女の夢が低俗で醜いものなら、真尋は間違いなく止めを刺しただろう。

彼女の夢、そして想い――それはあまりにも儚く、そして純粋なものだった。

少女の鳴き声が聞こえる。

さぞかし最悪な夢を見せてしまったのだろう。

「すまない......」

真尋は、謝罪の声を残し少女に背を向けた。

もう、少女には戦う気力も気丈な態度も何もかもが消えていた。

ただ、泣きじゃくる年相応の少女しかそこにはいなかった。

真尋が目を伏せたまま沙穂のほうへと歩を進める。

「真尋様――。」

「沙穂、私はまた一つの罪を犯した。

贖罪となるかはわからない。だが、この罪を私は死んでも永遠に背負い続けよう――。」

「御堂さん……」

奈央が真尋の様子を不思議そうに見る。

(彼女は敵なのに、どうして御堂さんが背負う必要が……。)

彼女には真尋の言動が理解できなかった。

(敵なら殺すしかない。

ここはそういう世界なのに――

踏み入れたら、Dead or Alive の二択しか残されてないのに――)

「さぁ、浩介君を助けようじゃないか――。」

真尋が疲れた声で一行を促した。


     * * *


浩介は桜花と共に暗闇の中にいた。

先ほどまでの伊織と同じように、自分の置かれた状況を浩介は分析していた。

浩介が最後に覚えているのは、ビルの上から男が飛び降りてきた光景であった。

『覚めない悪夢を、君に』――

とりとめの無い言葉が、呪詛のように圧し掛かる。

せめてもの救いは、共に桜花がいる事であろうか。

しかし、その桜花からも異常なほどの緊張が感じられた。

「な、何か言えよ……」

静寂に耐えかねた浩介が桜花へと噛み付く。

「そのような余裕などあると思うのか?」

桜花の声から、浩介はやっと事態を把握する。

ここは、あの男が作り出した空間。

油断していた自分は、まんまとその中に放り込まれてしまったのだ。

(我ながら愉快すぎるぜ……)

冷静に辺りを見回す。

黒、黒、黒、黒。

そこは黒き闇の中の世界であった。

(覚めない悪夢か――上手い例えだね。)

浩介が桜花を振るう。

しかし、風を切る音しか返る事は無い。

「無駄だ、私達は空間内に隔離されている。」

「昔マンガで見た。空間を切り裂く剣の事を。」

「私にそんな力はない。」

「そこを何とか。」

その刹那、闇が切り裂かれる。

影により作られた刃によって――。


「呆けるな!!!」

桜花が刃を切り払うべく動く。

「悪い!!」

浩介は慌てて、刃の先を見つめる。

しかし、そこは黒一色。

「次は背後だ!」

桜花が叫ぶと同時に、浩介も後ろを振り返る。

それが幾度も繰り返される。

覚める事の無い悪夢のように――


(意外と持たないものだな。)

虚空は正直驚いていた。裁定者のあまりの未熟さに。

(僕が動かずとも、伊織で十分討ち取れる相手じゃないか――。)

しかも、浩介には能力すらない。

桜花という武器さえ消えれば、浩介はただの人同然である。

「もう少し、足掻いてもらうか――。」

虚空が指を鳴らす。


「『誘うは闇裂く閃光』――!!!」

浩介の光の術式が闇に阻まれ霧散する。

「ならば――煌きの刃よ!!!」

桜花の秘剣を以ってしても闇は壊れない。

「浩介、動くばかりが得策ではない。

これは持久戦になるぞ――。」

「だからって、どうすりゃいいんだよ!!!」

苛立った浩介が桜花を闇雲に振るう。

それを見計らい、飛来した闇の刃が浩介を切り裂いた。

「――!!!」

声にならない悲鳴。

その衝撃で浩介は思わず桜花を取り落とした。

空間が歪む。

桜花が床に沈むように消えていく。

慌てて駆け寄れども、浩介の手は闇を掴むだけであった。

「終わらない悪夢など無い。

だが、もしも覚めない悪夢があったとしたならば――」

声が後ろから聞こえた。

浩介が振り向くよりも早く、虚空の蹴りが浩介を床へと転がす。

「魔剣すら手放すとはね。

徒手空拳で闘う方がお好みかい?」

浩介はよろめきながら立ち上がった。

相手が出ていたのだ、虚空さえ倒せば自分はここから出られる。

それは恐らく間違いないだろう。

「やってみるかい?」

虚空の目がそう挑発する。

「言われるまでも!!」

浩介が闇を駆けた。


幾度となく掌打を繰り返そうとも、掠る事すらなかった。

それほどまで、虚空と浩介の戦力差は開いているのだ。

桜花がいれば際どい所までは食い込めたかもしれない。

だが、今の浩介と虚空はまさに子供と大人以上の差が開いていた。

鈍い音と共に浩介が吹き飛ばされる。

「ガッ――!」

床に打ち付けられた衝撃が浩介を痛めつける。

(俺、こんなに弱いんだ――。)

薄れ行く意識の中で浩介は考えていた。

(紅目も牛鬼も自分ひとりでは勝てなかった。

そんな自分が狩猟者などに勝てるはずが無い――。)

頼りの桜花もこの手にはいない。

術式など空間を越えて回避されるだけ打つだけ無駄だ。

(浩介には覚悟はある。

いくら迷おうとも、根底にある信念だけは歪みはせんよ――)

桜花はあの時、章吾にそう言った。

でも、自分にその覚悟はあるのだろうか。

自分が戦う理由は、唯一つ――

この戦いの果てにある願いを叶える権利だけ。

この世界がどうなろうとも、自分にとっては正直興味はない。

目の前に足が見えた。

「お前は何の為に戦っている。」

幾度と無く問いかけられた質問だった。

虚空の背後には影なる剣が舞っている。

だが、虚空は浩介の答える時を待っているようであった。

「俺の願いをかなえるためだ――。」

浩介が切れ切れの声で答える。

虚空が頷く。

「誰もが自分の目的の為に戦っている。

その目的が正しかろうが、間違っていようが自分が正しいと思えば――

それは自分にとって間違いなく正義だ。」

(俺にとっての正義――。)

「人は何かの報酬なくして動けない。

善意の行動であっても、満足という報酬が得られる。

強いられた行動に報酬がなくて、闘える筈があるまい」

浩介は少しの間目を閉じて考える。

己の正義、己の戦う理由――。

自分は囚われているのだ、この世界を救わねばならないという責務に無意識のうちに。

(ならば、俺は風になりたい。

そんな檻……ぶち抜いて己の道を進めるような風に――)

一陣の風が闇の世界を駆け抜ける。

(願いを叶える為――生きなきゃならない。

誰の為でもない。俺自身のために――壱与にもう一度――!!!

その為なら、この身を血にでも染めてやる――!!!)

浩介に足りないのはハングリーさであった。

空虚な彼の心は生への欲望へと欠けていた。

死んでもいい、という気が必ずしもどこかにあった。

浩介自身はそれに気付いてはいなかったが、周りには一目瞭然であった。

死にたくない。口では幾度もそう言った。

だが、どこかでそれを冷静に見ている自分がいる。

(嘘ヲツクナヨ――)

もう一人の自分が、問いかける。

(オ前ハ、死ニタインダロウ?

死ンデ、壱与ノ所ニ行キタインダロウ?)

浩介は何も言わなかった。

ただ手を振るった。

何処からともなく訪れた突風に、もう一人の自分が――影が揺らぐ。

(生き抜いてやるさ。

この腐った螺旋の世界を――!!!)

影が完全に消える。

その瞬間、そよ風は嵐へと姿を変えた。

倒れたままの浩介が一瞬で掻き消える。

虚空は思わず目を疑った。

だが、それよりも早く自分を襲う殺気があった。

言うまでも無い。葛西浩介だ。


     * * *


その動きはまさに風の如しであった。

稀にだが、虚空の動体視力を超える速度で浩介は動いていた。

「剣が目覚めたか――。」

虚空は自分の目的の第一段階が達成された事を認識する。

ならば、次のステップに進むしかあるまい。

虚空が己の空間を駆ける。

指鳴りとともに影の刃が浩介へと突き進む。


浩介は風を感じていた。

一歩歩くはずがその何倍もの距離を飛んでいる。

そんな感覚が常に浩介を支配していた。

虚空が放つ刃が浩介を襲う。

浩介が吼える。

その瞬間、浩介の体が軽くなる。

全ての重みが消えてなくなる。

例えるなら、自分が空を踊っているかのようであった。

浩介はこの感触を頭の中に叩き込む。

そうすれば、きっと――絶対に忘れない。

「聞こえる――大気の歌声が。」

浩介は風の流れを聞き取り、そこに己が体を委ねた。

「『風の律動(シルヴァリズム)』――解き放て、大いなる風を!!!」

一瞬のうちに、浩介が虚空へと肉薄する。

瞬間加速能力――それこそが裁定者、葛西浩介が得た能力である。

(案ずるな、私は常にお前の味方だ。)

あの時、桜花はそう言った。

ならば、それを――信じるしか無い。

「そう、それでいい。」

虚空が言ったのか、それとも桜花が言ったのか。

浩介にはそれを聞き取る事はできなかった。

手の中に桜花を感じながら、浩介が刃を振るう。

虚空が防御の体勢をとるよりも早く、桜花が虚空ごと悪夢を切り裂いた。


世界が割れる。

まるでガラスのように。

虚空が能力を解除したのだ。

「裁定者と魔剣。

信頼関係なくして、戦いは生き残れない。」

僅かによろめきながら虚空が浩介へと言い放つ。

「今日のところは、それに気付けた君に免じて――

僕の負けという事にしてやるよ。」

そう言うと虚空は髪をかき上げながら、その姿を薄っすらと消していった。


その言葉が紡ぎ終わると同時に、浩介は光に包まれる。

あまりの眩しさに耐えられず、浩介が眼を瞑る。

そして、目を開いた時には閑散としすぎた商店街。そして、奈央、真尋、沙穂の顔があった。

「浩介!!」

奈央が傷だらけの浩介へと近寄る。

「まさか自分で帰ってくるとは、見事だよ。」

真尋が拍手しながら、ゆっくりと歩み寄る。

「奇跡的、な勝利かな。

俺自身、どうしてあいつが退いてくれたか解らないんだ。」

浩介はこの勝利、いや勝利とはいえないであろう。

この結末に釈然としない、何かを感じていた。

「退いてもらった。

まさにそういう感じだったな。」

桜花も同様であった。

「あいつは俺達に何かを教えようとしているようだった。

それが何かまではわからないけどさ――。」

浩介が地面へとへたり込む。

「どちらにしよ、腰抜けちまったよ。」

「やれやれ、成長したと思ったのは気のせいか。」

桜花の笑いにつられて、一行が笑い出す。

その様子を、何も知らない通行人は冷ややかに眺めていた。

そう、虚空達が完全に射程内からいなくなった、という何よりの証拠であった。


     * * *


虚空は伊織を背負いながら、夜の街を駆けていた。

「ごめんね、虚空……私さえ、しっかりしてれば。」

「僕のほうこそ、すまなかった、伊織。」

二人が互いを気遣う。

虚空の思惑は見事成就された。

虚空の狙いは浩介の殺害ではない。

(来るべき戦いは目前まで来ている――。

葛西浩介。これで、やっと君は第一段階だ。)

「虚空?」

突然黙った虚空の顔を伊織が眺める。

怒っているのではないか、と不安げに。

虚空はそれに笑顔で返した。

「時間は意外と経っていないんだね。

そこら辺のお店で一緒に遅い夜ご飯でも食べようか。」

「うん!!」

伊織の顔が笑顔になる。

虚空はそれを見て安堵した。伊織の相手を幻殺者・御堂と気付けなかったのは自分のミスだ。

(伊織は僕が守らなきゃいけない……。)

「のんきにメシ?アァン?」

奇声とも言える大声が聞こえたのはその瞬間だった。

いつの間にか、前方に目の前に紫の長髪を腰まで伸ばし、レザースーツに身を包んだ長躯の男がいたのだ。

「ヘルか……。」

「ハーッハッハッハァ!!!

そうだよ、ヘル様だぜぇ!!!」

虚空は自分と同じナイフの座に位置する男を冷ややかに見た。

「負けちまったなぁ、虚空。」

「裁定者が能力に目覚めた。

その報告が優先されるべきだと感じただけさ。」

距離が一瞬でつめられる。

ヘルが虚空へと顔を近づける為に――。

「裏切り、なんて考えてないよなァ?アァン?」

ヘルもまた空間能力者であった。

「まさか?」

虚空はヘルから目を逸らす事なく答えた。

(気付かれる訳には行かない――。

まだ、駒は出揃っていないんだ。)

「まぁ、いいぜェ。

おかげで獲物が俺様にまで回ってくるんだからよォ!!」

ヘルの笑い声が夜空に響く。

「この紫眼のヘルさまが、全員サクッと殺してやるぜェ。

他の奴は指でも咥えて見てりゃいいんだよ!!!」

虚空と伊織がその煩わしさに顔をしかめるが、ヘルは気づく素振りもない。

「裁定者を殺るのは刹那でも奈落でも神威でもネェ!!

このヘル様だ!そこんとこ、世露死苦!!!」

中指を天へと向けながら、ヘルが飛び立つ。

その姿はすぐに小さくなっていった。

「何しに来たの、アイツ。

つーか、超ウザ?むしろ、公害。」

「ただの次回予告だろ。自己主張が激しすぎるからな、アイツは。」

虚空は覚めたようにそう言うと、すっかり調子を取り戻した伊織と入るべき店を選ぶ為に歩みを緩める事にした。
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