町のざわめき。
その喧騒から程遠くない場所に彼はいた。
ビル風が彼のコートの裾を優しく揺らす。
どこの家からであろうか。
激しいロックミュージックが聞こえてくる。
まるで町の喧騒に負けずに自分がそこにいる事を主張するかのように――。
『We keep staying in the nightmare.(僕達は悪夢の中に留まり続けている)』
黒いコートを棚引かせながら、男が歌に合わせるように声を紡ぐ。
曲が止む。同時に、町の喧騒も次第に退きつつあった。
美しい月の夜である。
月の魔力は人々を魅了してしまうのだろうか――。
『However, do not forget.(だが、忘れてはいけない)』
月明かりが静かに男を照らす。
月明かりをライト代わりにして男はゆっくりとビルの淵へと歩いていく。
そこは都会という名の深遠。
『The thing of not deciding the nightmare that doesn't end. (終わらぬ悪夢など決して無いのだから。)』
男が深遠へと身を踊らす。
『眼を背けてはならない。
これから起きる全ては非現実(ノンリアル)かもしれない。
だが、それら全ては現実(リアル)だ。』
そして、男の姿は地面に衝突するよりも早く、闇へと消えうせた――。
#00 A Rainy Day
2084年 葛西浩介は今もなお、不完全だ。
世紀末の予言も、予想された大戦争も何もなかった。
そう、至極平和に21世紀は流れていった。
残りが全体の1/6程度でもそれは変わる事が無いだろう。
政府の国内への強行政治を抜きにすれば20世紀と変わる事など何もなかった。
だから、今日という日も何も変わることは無く流れていくはずである。
ただし、一人の青年の中の時間は15年前から1秒たりとも動いていない。
外見、環境、そして数々の離別――
それら全てが変わりながらも、彼の中の時間はあの時のまま止まり続けている。
雨。雨。雨。
浩介は窓際につるした照々坊主を恨めしげに睨んだ。
ため息をつきながら浩介は、ヤケに目つきが悪い坊主は投げ捨てる。
(こんな日に雨だなんて――ついていないな。)
彼女が死んで何年が経つのだろう。
その時を境に、浩介は心の中のネジが一つ抜け落ちてしまった事に気付いていた。
今でもなお、そのネジは見付からない。
いや、彼は見つけようとしていないのかもしれない。
ただ、そこにいて息をしているだけ。
そんな日常が無意味に積み重ねられた。
あれは15年前。
その頃、葛西浩介は小学生であった。
優しい親。楽しい学生生活。
誰もが一度は経験するであろう穢れなき黄金の日々。
そして、彼には一人の幼馴染がいた。
投馬という珍しい苗字で壱与という珍しい名前。
不思議な事に、二人がどこで出会ったのかを彼は覚えていない。
互いに、共に居るという事が当たり前に成っていたから。
誰もが描くハッピーエンド。
それを二人は望んでいたし、実現していた。
だが、幸せの絶頂は突如として崩れ去る。
夢寄(ユメヨリ)市を襲った未曾有の連続猟奇殺人事件――
最早、迷宮へと入り込んだその事件の無数の被害者。
その中に投馬壱与の名は書き連ねられている。
あの日も浩介と壱与は二人で帰宅していた。
雨が酷く降る日であった。
浩介が傘を学校に忘れたせいで相合傘で帰り、冷やかされたのも彼は覚えている。
歩き出してどれくらいの時間が経っていたのだろうか。
壱与の家の前にあと少しで着けるという時の事だった。
キィ――。
黒板を爪で思い切り引っ掻く時のような音が響く。
空間にポッカリと窓が出来た。
信じられないだろうか――だがそれは紛れも無い現実(リアル)。
窓から赤い軌跡が解き放たれ、牙となり壱与の胸を穿つ。
声にならない悲鳴。
流れ落ちる鮮血。
目の前に現れた異形の姿。
御伽噺でしか見れない化物――より醜悪な存在がそこにいた。
避けた口が舌なめずりをし、赤銅色の瞳が獲物を嬲る。
しかし、浩介の記憶はそこで途切れている。
「間に合わなかった――」
薄れ行く彼の意識の中で、誰かがそう呟いた。
目が覚めたとき、浩介は自宅にいた。
母親が何処かへ電話しているのが聞こえた。
時計を見るとあの時から1時間程度しか経過していない。
「はい……そうですか、壱与ちゃんは……。」
電話が終わると母親が近づいて来て、彼の息子を抱きしめる。
「よく無事だったね……浩介。」
事情は薄々と解っていた――否、頭では理解するのを全身全霊で拒否していた。
あの時に流れ出た大量の血液。二度と聞きたくない肉を切り裂く音。
その全てが一つの結論をはじき出していた。
どのような難解な方程式ですら導き出し得ない最悪の答え。
それは、壱与はもうこの世にいない、という答え。
その瞬間、ハッピーエンドは失われた。
今年で葛西浩介は20になる。
大人の階段を上り始めたという年齢だが、彼の時間はあの時代で止まっている。
15年とは一人の人間を変えてしまうには十分すぎる時間であった。
カレンダーで大きく丸がつけられた日付。それが今日――壱与の命日である。
億劫そうに、布団から出て服を着替える。
浩介は、この日は例外なく必ず彼女の墓参りに行く事にしていた。
しかし、窓の外を見れば、不快なほどの雨。
「憂鬱だな……こんな日に雨だなんて……」
同じ言葉を再び繰り返す。
(でも、これは俺の中で唯一意味がある日。)
浩介は雨の中、壱与の墓参りに行く事を断行した。
体があげる全身全霊の抗議は、勿論スルーして。
* * *
雨の歩道を傘を差さずに歩いていた。
風邪をひこうが自分を心配する人など、もう誰もいない。
大学を浪人し、一人暮らしを始めた頃には既に親はこの世にいなかった。
中学高校があった街から逃げるように立ち去り、浩介はこの静かなエリアへと引っ越したのだ。
(だから、遠慮なく風邪を引ける。)
青山の墓地。そこの小高い丘の上に壱与の墓はある。
といっても、その墓には誰も眠っていない。
何故なら、彼女の遺体はほとんど残らなかったからだ。
まるで消えうせたかのように遺体は残っていなかった。
その場に流れていた微量の血から壱与の血液と同じ事が証明され、
壱与は正式に死んだ事にされてしまった。
(生きていれば、と何度願った事か――。)
すでに花が置かれていた墓前に花を沿え、手を合わせ冥福を祈る。
コツン――石畳に足音が響く。
「浩介ちゃん……?」
背後からの声に浩介が振り向くと妙齢の女性がいた。
「大きくなって……元気で暮してる?」
「ええ。一応生きています。」
ユーモアと感じたのか、壱与の母親は微笑をこぼした。
あの頃の面影もないほど老け込んだ姿。
彼女もまた、浩介と同じようにネジが欠け落ちてしまったのだろうか。
「毎年、花を添えに来てくれるのは浩介ちゃん?」
「ええ、それが俺の責任ですから」
(責任――俺が生きているのは壱与のおかげだ。
だから、俺は生きている限り彼女に借りがある。
返したくても返しきれない借り――。)
「それじゃあ、俺はそろそろ...」
そう言うと、彼は青山墓地を後にする事にした。
この場にいればいるほど、あの幸福だった日々を思い出してしまうのだから。
ハッピーエンドを無邪気にも信じていた自分がこの上なく、バカらしく思えていた。
外は昼とは思えないほどの暗さ。
雨も流石にひどくなってきたのでコンビニでビニール傘を買う。
こんな物でもないよりはマシだろう――そう思えるぐらいの安物である。
(そうだ、かつて壱与の家があった場所を通って帰るか――。)
もう投馬家は引っ越してしまい、空き家があるだけだったが、
壱与の思い出がたくさん詰まっている場所。
あそこに行けば壱与が傍にいてくれる――と、思ったのだ。
昔、心臓破りと呼んだ長い坂を歩き終える。
あの頃は二人だから辛くなかった。
でも今は一人だから心なしか辛い。
強くなる雨音。飛び散る水しぶき。
目的の壱与の家まであと少し。久方に心が弾む。
ふと周りを見渡せば――彼女が命を落とした場所。
心が弾んだ自分を戒め、さらに前へ進もうとする。
キィ――
不快な音が響き渡ったのは、その瞬間の事だった。
空間に窓が開く――まるで、あの雨の日がリプレイされたかのように全てが同じだった。
* * *
とがりきった牙、そして血のように赤い瞳。
壱与の幼い命を奪った異形の存在。
奴は今現在、確かにこの場所に存在している。
窓からこの世界へと再び這い出ようとしている――。
存在が赦されるはずはないのに、それは皮肉な運命として再び彼の前に姿を見せた。
(逃げる?復讐のために戦う?俺に何ができる?)
考えてる時間は無かった。時は無常にも流れていく。
こうしている間に空間の穴は化物をこの世界へと完全に解き放った。
獲物を見初めた時の舌なめずり、そして瞳による嬲り。
ただ、葛西浩介は餌になるつもりなど毛頭なかった。
彼には贖罪という生きる目的がある。
「シャァァァァァ!」
異形の咆哮が止まった思考を現実へと引き戻す。
紅目の化物が跳躍する。
轟――
風が刃となり浩介へと押し寄せる。
(もう逃がしてはくれないか……)
浩介は手に持った唯一の武器となり得るビニール傘を構えながら、心の中で舌打ちをする。
通学帰りの小学生のようにビニール傘を刃としてこの化物と戦おうという自分。
(馬鹿げてる――でも……)
勝機は万に一つ。間違いなく、それ以下であるとしても――
(俺は逃げられない!!!)
“紅目”の舌が嘲笑するように動く。
餌のせめてもの抵抗の態度が、異形の嗜虐心をそそったらしい。
現代世界で魔物と戦うなんて有り得ない現実が今リアルタイムで流れていた。
先制は“紅目”の鋭い爪だった。
避けたつもりでも浩介の上着が裂け、赤い筋が体に走る。
お返しとばかりに叩きつけたビニール傘は無惨にも“紅目”の表皮により砕け散った。
「どういう堅さしてるんだよ……!!」
浩介があわてて背後へと下がる。
轟――風が地を切り裂く。
一瞬前にいた場所を、『破壊』が襲う。
そこにあった電信柱は悲しいかな、拉げ役目を果たす事はなくなった。
生身の人間が喰らったなら、即効で天に召されてしまうだろう。
抵抗は無駄。逃げても無駄。
悲しい現実が突きつけられた。
彼に与えられた選択肢は3つ。
命を賭けて逃げるか、化物に食われるか、いるかいないか解らない神様に祈るか。
(2番目だけは死んでも遠慮したいところだぜ――。)
* * *
その時の事だった。
坂の向こうから足音と、音程がはずれた歌声が響く。
登校帰りだろうか、幼い少女が哀れな事にこの現場へと遭遇した。
“紅目”の注意はそちらへと向けられている――
少女は目の前の光景にようやく気付いたようだ。
信じられないのか、特撮のロケだとでも思っているのか、
目を丸くしたまま、動かない。
昔の自分がフラッシュバックする。
どうやら、取れる選択肢は一つに限定されてしまったようだ。
とうの昔に消え失せたと思っていた感情――他者を思いやる心。
その微かに残る良心が、この少女を助けたいと叫んでいた。
「逃げろ!!!」
浩介が大声で叫びながら、拉げた電信柱の横に設置されていた消火器の蓋を開ける。
しかし、少女は目の前の光景の意味をようやく悟ったのか、震えて動こうとしない。
「逃げろ!!!」
もう一度、浩介は叫んだ。しかし動いたのは“紅目”。
少女の目が驚きと恐怖に見開かれる。
その瞬間、少女は気絶し倒れこんだ。
幸運な事に、それが彼女の命を救ったのだ。
“紅目”の一撃が空を凪ぐ。
そして、“紅目”が次の攻撃に移るまで――
その数秒で浩介は行動に移っていた。
消火器のノズルを引くやいなや、強力な噴煙が辺りを支配した。
「これでもくらえッ!!」
“紅目”も浩介も――文字通り全てが瞬く間に深い霧に包まれる。
その噴煙の中、少女の姿を探り当て、抱えあげる。
視界を妨げられた“紅目”の怒りの咆哮が身を震わせる。
この人工的な霧が自分に与えられたラストチャンスだ。
これを逃したら、彼もも腕の中の少女も間違いなく餌となる。
霧が雨により晴れ始める。
「まだ晴れるな……考える時間をくれ……」
祈り虚しく霧は晴れ始めている。
頭の中をフル回転させる。
刹那の瞬間で思いついたのは、壱与の姿だった。
「この刀はね、大昔にご先祖様がお化けを倒した時に使ったんだよ。」
壱与の家の蔵で遊んでいた時に、彼女が自慢げに言いながら見せた刀。
「魔剣」は投馬家の蔵にある。つまり、こいつを倒せるかもしれない唯一の方法は――。
目の前にあるのは、かつての投馬の家。そして、魔剣が眠るかもしれない蔵。
「壱与、悪いが不法侵入するぜ。」
霧が消える前に一歩でも前に進むため、浩介は走りだした。
万が一にでも縋れるものがあるなら、それに賭けてみたかったのだ。
* * *
近隣の人達が様子を見に来ないことを祈る。
雨の中、彼は投馬家の広い庭を全力疾走している。
片手には幼い少女、もう片方には命の恩人――恩物?の消火器。
住居侵入、器物破損、駄目押しで幼女暴行のレッテルまで押されそうだった。
幼い頃に遊んだ蔵の秘密の逃げ道。
少々きつかったが、何とか通り抜ける。
壱与が作ったという小さな人形が、彼を迎えてくれた。
蘇えるあの頃の思い出――だが、浩介はそれらの幻想をすぐに打ち消した。
感傷に浸る時間は無い。魔剣を探さねばならないのだから。
記憶を頼りに、蔵の中を探し回る。
扉に轟音と共に何かが叩きつけられる。
疑うまでもない。“紅目”だ。
尚更、時間がなくなった。
「この魔剣はね、悪い奴らを全部切り伏せちゃう魔法の剣なんだよ。」
(頼む、壱与。その魔法の剣を俺に貸してくれ。
君の仇を討ちたいんだ。
自分もあの少女も助けたいんだ。
手の届く範囲ぐらい守りたいんだ。)
“紅目”の突撃の轟音で少女は目を覚ましたらしい。
少女の泣き声を聞き、紅目の嗜虐心はエスカレートする。
終に扉が軋んだ。
(あと少しでいい。何とか耐えてくれ――。)
頭の中では蔵での思い出が次々と蘇えった。
「私がピンチの時は、浩介は私を助けに来てくれる?」
(ごめん、助けられなかった――。)
「私、大事なものは全部ここに隠しちゃうんだ。あと、見られたくないものも。」
(確か、それで零点のテスト隠してたよな。)
「この魔剣は触っちゃいけないからって封印がされてるんだよ。
なんか、出雲とか言うところの秘宝をお父さんが預かってらしいの。」
霊都と言われる出雲の秘宝――確かに、ご利益がありそうだが、見付からなければ意味がない。
「だから、私の大切なモースケに守っていてもらうんだ。」
モースケというのは確かあの頃の彼らよりも大きかった巨大な牛の縫いぐるみ――。
そして、その縫いぐるみは目の前に昔よりも汚れた風貌で置かれていた。
モースケは、まるで守ろうとしているかのように何かを握り締めていた。
鞘に刺された一振りの刀――。刻まれた『桜花』の銘。
「これが魔剣……?」
轟音と共に扉に“紅目”の体が叩きつけられる。
扉の部品が拉げ飛ぶ。あと少しでいい。何とか耐えてくれ。
浩介は、急いで鞘から刀を引き抜こうとした。
しかしピタリとして抜けてくれない。
「お前に私を扱う覚悟はあるか?」
この状況に似合わない静かで落ち着いた声が響いたのはその時の事だった。
* * *
浩介の頭の中に直接静かな女性の声が響く。
「お前に私を扱う覚悟はあるか?」
同じ問いが無機質的に繰り返される。
辺りを見回しても声の主は存在しない。
信じがたい事だが、どうやらこの刀が、彼に話しかけているらしい。
「私を扱う。即ちお前が裁定者となることを意味をする。
遥かなる時の果ての地で業を裁け。もうお前は日常には戻れない。
だが、業か人――裁定と断罪の戦いの末、勝者の悲願は魔剣により叶えられる。」
支離滅裂、解読不能な言葉の中、印象に残った「日常には戻れない」。
だが、それがどうしたと言うのだろう。何故なら――。
(もう俺の日常なんて破綻してるんだよ……壱与を失った時に!!)
躊躇う事はなかった。刀を鞘から一気に引き抜く。
眩い閃光と共に刃は鞘から解き放たれる。
これで彼の罪状に銃刀法違反が追加された。
考えることは唯一つ。
“紅目”を滅ぼす事。それだけだ。
最後の突撃と共に扉が蔵の中に叩きつけられる。
扉が破られ、蔵の中に“紅目”が姿を見せた。
そして、浩介は魔剣を構え“紅目”と相対する。
その瞬間、葛西浩介の日常は完全なる非日常への昇華を迎える。
(覚悟など、とうに済ませた――!)
浩介と“紅目”の視線が宙でぶつかり合う。
「ほう、低級の業(カルマ)か。案ずるな、私がいれば楽勝だ。」
魔剣・桜花の言葉も彼には届かない。
刀の扱い自体、これが初めてなのだから。
日常生活において刀を振り回す経験をした人間など、どれだけいるであろうか。
言うまでもなく、浩介も大多数の未経験者であった。
体が震えている。
だが、それは当然の事だ。殺し合いなど生まれてこの方体験した覚えもない。
“紅目”にとって、目の前の若者はどう映っただろうか。
しかし、目の前の相手の獲物の強大さには気付いたようだった。
先ほどの遊ぶような態度も、嘲笑も感じられない。
在るのは魔剣に対する絶対なる恐怖。
「さぁ、狩りを始めようか!業という化物を狩る舞踏会(マスカレイド)だ。」
その声が戦闘開始の合図となった。
久しぶりに封印から解かれたせいだろうか。
妙にハイな桜花を浩介は“紅目”に叩きつけた。
斬――
ビニール傘では傷すらつかなかった外皮に大きな傷が出来る。
「キシャアアアアアア!」“紅目”の悲鳴。
だが、“紅目”も大人しくやられてはいなかった。
轟――先の風よりも数段上の破壊が襲いかかる。
(受けきれない――!)
その一振りで、魔剣の持ち主は蔵の壁に叩きつけられた。
無造作に置かれていた古い荷物が崩れ落ちてくる。
内臓を抉るような痛みと物がぶつかる痛み。
桜花で咄嗟にガードしなければ、即死していてもおかしくなかった。
「ハァ……糞ッ……!」
体中が痛む。骨が悲鳴を上げる。
「裁定者。お前はどうしてそんなに弱い。」
桜花からの痛烈な批判に浩介は反論の声を上げる。
「お前の基準で考えるなよ。俺はインドア派なんだ。」
「インドア?そんなものは関係ない。」
桜花の刀身がひときわ強く輝いたような気がした。
「戦いの生死を決めるのは、意志の強さだ。」
“紅目”も相手がそう簡単に倒れたとかは思っていないらしい。
ガラクタを壊しながら、ひたすら敵の姿を探している。
「意志の強さねぇ……」
破壊音が徐々に近づいてくるのを浩介は聞き取っていた。
「なら、簡単な事だ。“紅目”(こいつ)を、この世界から滅ぼしてやる。
その後の事は、全部後回しだ!」
そして、彼はガラクタの中から、外へ向かい刃を突き刺した。
鈍い感触。そして、鮮血が飛び散る。
どうやら、桜花の一撃は紅目の片目を貫いたらしい。
「下賎な血で私が汚れるのはあまり好きではない。
風呂でちゃんと手入れはしてもらうぞ。」
「お前が風呂に入るのかよ。」
浩介は、桜花の呟きに自然と突っ込みを入れてしまう自分に気付いていなかった。
しかし、彼らは何かを失念していた。
この場所にいたのは浩介、“紅目”、ついでにいうと桜花。
否、関係者はあと一人――。
“紅目”の赤い片目は第三者である少女の姿を捉えていた。
“紅目”の跳躍。
最早、間に合わない――
「桜花!!!」
「仔細無い。ただ、これは少々小腹が減る。」
「そんなのどうでもいいだろうが。何とかしろ!!!」
「よかろう。腰を抜かすなよ?」
魔剣から迸る光の筋が放出される。
一閃――。
桜花から解き放たれた光の刃が“紅目”の足を凪ぐ。
足が地に着かなくなった“紅目”はそのまま倒れこんだ。
「壱の太刀・煌(コウ)。覚えておけ、お前の技だ。
『げぇむ』とやらの『えむぴー』などいらん。存分に使え。
ただし、私が少々小腹が減る。」
“紅目”は最早、再起不能であった。
足が存在しない為、逃げようにも逃げ切れない様子である。
「さぁ、裁定者。終わらせろ。」
頷くと、浩介はもがき苦しむ“紅目”に刃を振り下ろした。
耳を劈くような断末魔の悲鳴の後、蔵には以前と同じ静寂が訪れた。
紅目の体が黒い霧となり宙に霧散する。
初めから、この世界にその存在はいなかったかのように。
流れ出た血も、何もかもが黒い霧となる。
「初陣にしては上出来だ。
食事と風呂の方、約束は守ってもらうぞ。」
浩介はガラクタの山の上に腰を据える。
否――どうやら――
「あはは……腰抜けちまったよ。」
「情けない男だ。」
「そりゃ失敬。」
だが、生き残れたという喜び。
壱与の仇を討てたという喜び。
その2つは葛西浩介を充実感へと満たしてくれていた。
(壱与、これで仇は打てたよ――随分と遅れちまったけどな。)
* * *
少女がこっそりと近づいてくる。
その眼からは浩介に対する不審感が読み取れた。
浩介は失笑する。
自分がしてきた事は“現実”においてはありえない事。
あのような“化物”を倒せる存在がいるなら、それもまた“化物”である。
少女が決心を固めたようだ。浩介へと問いかける。
「お兄ちゃん、あのお化けは……?」
「お化け?そんな物いなかったよ。全部夢さ。」
彼は幼い彼女に、自分のようなトラウマを植え付けたくなかった。
「さぁ、早く家に帰って楽しい事でも考えてくれ。」
「うんっ、夢のお兄ちゃん、ありがとう!」
少女は元気よく蔵の外へと駆けて行く。
きっと明日になれば、何もかも忘れてしまう事ができるだろう。
彼女にとって、この出来事は夢であるべきなのだから。
少女の足音が消えると、日常破綻者と喋る刀という――奇妙な取り合わせが静寂と共に残された。
「さぁ、契約を履行するぞ。」
(契約?業を狩れ、とか言っていた事だろうか。)
「具体的には何をすればいいんだ?」
「こことは異なる次元へとお前を飛ばす。」
(異なる次元ときた。)
「そこでは業と人間が争っている。」
そういいながら、桜花は自然と浩介の手を離れる。
先ほどまで刀であった姿は、光に包まれ女性の姿を形作る。
年は浩介よりも少し上だろうか。
モデル体型というべきであろうか――歩いているだけで男達が振り向くほどの美貌である。
ただし、浩介には彼女を直視できない理由があった。
「お前にはそこで私と共に業を狩って貰う。
いや、正確には業側の裁定者である『断罪者』を倒すのだ。」
(断罪者と裁定者。俺は人間側の裁定者に位置するらしい。)
浩介は自分の立場を初めて理解した。ただし、それ以前に――
「それはわかったが、何で裸なの?」
「鞘をよこさんか、馬鹿者!」
刀の癖に、桜花が頬を赤く染めながら怒鳴る。
「俺は別にそのままでもいいけど――」
言い終わる前に鞘を引っ手繰られてしまった。
鞘は白いコートとなり、桜花の体を包む。
腰をゆうに超える長さの髪を、後に束ねながら桜花は言い捨てる。
「このエロスめ。」
「健全な青少年だから仕方ないだろ。」
桜花は頬を膨らませながら目の前のエロスを睨みつけていたが、機嫌を直したようだった。
「何か聞きたいことはあるか?」
桜花がガラクタの上に腰を下ろす。
「別に。」
「何で。」
「何でといわれても。」
「どうして、刀が人間になるのか!とか聞きたくないのか!?」
「あの化物が出た時点でリアリティが無いんだ。いまさら、人間が刀に化けても気にしないよ。」
「失礼な!私はれっきとした魔剣だ。」
「フーン。」
不思議なことに、浩介の中に桜花が何者かなんて興味は一片も無かった。
桜花がため息をついて話を元に戻す。
「まぁ良い。もしお前がこの世界に未練があるならば、一日だけ待とう。
愛する者でも親しき者でも親族でも良い。“しばしの別れ”を告げて来い。」
浩介は「しばしの別れ」と言ってくれた桜花の心遣いに感謝した。
(勝って、必ずこの世界に戻ってくる。
俺には壱与の墓参りという贖罪の儀礼があるのだから。)
だが、浩介は――
「いいんだ、すぐに行こう。決意が鈍らないうちに。」
「なに、私に気を使うことはない。
その間に私は数十年ぶりにこの世界の食物でもエンジョイしてくるのだ。」
「親しき人も愛しき人も親も全部俺にはいないから。」
沈黙――。
二人の間の沈黙が重い――だが、それは浩介にとって紛れも無い事実だった。
「そうか、なら旅立つとしようか。」
桜花は背を向き空間に印を書く。
その背中は、そこはかとなく哀愁を漂わせていた。
(そんなに、エンジョイしてみたかったのか――。)
* * *
キィ――
嫌な耳鳴りの音と共に空間に窓が開く。
「さぁ、私の手を握れ。」
浩介が桜花の手を握ると、彼女は窓の中へと飛び込んだ。
突然のダイビングに浩介が驚愕の悲鳴を上げたが、桜花は黙殺する。
そこは、いろいろな物が入り混じった場所。
「私の手を絶対に離すなよ。
下手に飛ばされたら私でもお前の居場所は解らん。」
「わかった。何があろうとも離さない。」
(コイツとなら、きっと違う世界でも上手くやっていける。)
刀でありながらも暖かである、桜花の手を握りながら浩介は強く感じていた。
「エロスな事を考えたらすぐに振りほどくからな。」
どうやら、意思の疎通は完璧とはいえないようであったが。
異空間が猛スピードで後へと流れていく。
「さぁ、見えてきたぞ。」
桜花の言葉で前を向けば光輝く窓が大きく口を開けていた。 |