第1章 〜春の夢〜
「ただいま」

繁華街を抜け、駅から少し離れた比較的治安の良い貧民街に入り、しばらく歩いた場所。
そこにあるぼろアパートの一室の扉を開け、春香は声をかける。

すぐにぱたぱたと足音が出てきて――

「おかえりなさい、お母さん!」

一人の少女が顔を出す。

年の頃は14,5だろうか。ちょっと癖のあるセミロングをポニーテールにし、厚手のセーターと膝丈のスカートを身に着け た少女だ。
笑うとえくぼの出来る愛らしい顔は、まだ多分に幼さを残すものの、整っていて美しい。
貧しい栄養状態のせいか、華奢な印象をぬぐえないが、それでも少女の溌剌とした生命力は光となって彼女の周りを取り 巻いているようだった。

「いい子で勉強してた? 峰雪」

後ろ手に扉を閉め、靴を脱ぐ。足元にはきっちりそろえられたローファーと運動靴が一組ずつ。どちらも、少女――春香 のたった一人の娘、峰雪(みゆき)の物だ。

「もちろん!」

元気よく笑う峰雪。屈託の無いその笑顔に、春香はその日一日の疲れが飛んでいくような気さえする。

「ねぇ、おなかすいちゃった。今日のご飯は?」

峰雪の視線が自分の手に握られているビニール袋に向くのを見て、春香は笑みをこぼす。
ちょっともったいをつけてビニール袋を掲げてみせて、

「驚かないでね? 今日は奮発して、豚肉買ってきちゃったの。それと……」

ビニールの底から、大切に持ってきた食材を取り出す。あぁ、よかった。ちゃんと割れていない。

「ほら、卵よ。玉子焼き、つくってあげる」

「わぁ〜〜〜!」

峰雪が、ぱあっと目を輝かせる。
玉子焼きは、この子の大好物だ。買ってきてあげてよかった。
春香は、自分の顔がほころぶのを止められない。


しかし、喜びに輝いていた峰雪の顔がふと曇る。

「ねぇ、お母さん、うれしいけど……お金とか、大丈夫かな?」

「…………」

どこか申し訳なさそうな雰囲気すら見せる峰雪。それまであまりにも峰雪の顔が輝いていた分、その表情が与えるちくりと した痛みが、春香にはよりいっそう強く感じられる。
笑みのまま、春香は心の中でため息をついた。

この子には、いつもこんな心配をかけてばかりだ。収入が無いのは事実だし、実際この子には金銭的な事を理由に何度 もかわいそうな思いをさせている。しかし、仕方ないとはいえ、やはりこういう時はちゃんと自分に『母親』が出来ているの か、心配になってしまう。
同時に、峰雪のこんな優しさや気遣いを、嬉しいと思ってはいるのだけれど。

「大丈夫よ。……今日はお給料が入ったの」

その言葉で、峰雪が少しだけ笑う。

「じゃあ、たまには……いいのかな?」

「そうよ。ほら! フライパンとか出して。早く作りましょう」

「うん!」

まぶしい――もしかしたら、春香にはまぶし過ぎるかもしれない笑顔を見せ、峰雪がキッチンに立つ。

(あぁ……)

我が家へと入り、ビニールから食材を取り出しながら、春香は思う。


自分は、この笑顔のために生きているのだ。



フライパンに豚肉を入れ、ざっと焼く。調味料は貴重だから、塩も胡椒もほんの少し。ひさしぶりに――本当に、いったい どれぐらいぶりだろう?――肉を焼くいい匂いがキッチンを包み、古くなって妙な音を立てるようになった換気扇から外へ とあふれ出していく。

ろくな食材も無いから、こんな料理と呼ぶのもどうかと思うようなものがメインディッシュだが、それでも養殖された食用ネ ズミを焼いたものや、同じく食用ゴキブリを炒めたものに比べればずっとマシだ。

味も匂いも見た目も……普段得がたいものだからこそ、春香も峰雪もわくわくする気持ちを抑えられない。

隣で嬉しそうにキャベツを刻む峰雪を見ながら、焼き加減を調節。焼き加減は、少し強めに火を通すぐらいが良い。焼き すぎてしまうと硬くなってしまうけれど、逆にしっかり焼いておかないとおなかを壊してしまう。特に、衛生管理が徹底されて いない、こういう安い肉は。

峰雪が千切りキャベツを皿に盛り付けると、春香はすかさず、手馴れた仕草で焼きあがった肉をその周りに盛り付ける。

峰雪がいそいそと炊き上げたご飯―安いオーストラリア産の米だ―を茶碗に盛る。その横で、春香は腕まくりをして買っ てきた卵を取り出す。

「よぅし……!」

肉も贅沢品だが、なんと言っても、今日のメインはこれだ。
ボールに卵を割り、手早くかき混ぜる。塩に、醤油に、砂糖をそれぞれ少しずつ。本当はみりんやお酒も加えたいところ だけど、贅沢は言えない。

ざっと水で流したフライパンに油をほんの少しだけ引いて、もう一度コンロの火をつける。

さぁ、ここからが自分の腕の見せ所だ。
峰雪の期待のこもった目が、自分とフライパンとボールの中の卵の間をせわしなく行き来するのが目の隅に見える。

ボールを持ち上げ、中身の4分の一ぐらいをフライパンに流し入れ、薄く広げていく。
中身はふんわり。外はちょっと焦げてるぐらいがいい。
卵が固まりすぎないうちに菜箸を操ってくるくると巻いていく。

続いて、2回、3回、4回……卵を全部入れて、しっかりと焼き色をつけて……!

「はい、出来たわよ」

「わぁい! お母さん上手!」

火を止め、玉子焼きを皿に乗せる。ちょっと形は不恰好だが、我ながら良く出来た……と思う。
小躍りしながら喜ぶ峰雪と一緒に、卵の皿を机に運ぶ。

二人、机に座って。

「いただきます」
「いただきまーす!」

同時に箸を取り、肉を、野菜を、玉子焼きを食べる。

「おいしい! お母さんの玉子焼き、やっぱり最高だよ」

笑いながら、楽しそうに喋りながら、峰雪の箸がとまることは無い。
春香も、微笑みながらゆっくりと料理を口に運ぶ。

うん、豚肉の焼き加減もちょうどいい具合だ。焼きすぎてもいないし、さりとてちゃんと火が通っていないということもな
い。自分の料理の腕もずいぶんと上がったものだ。料理のセンスもあったのかもしれないが、やはりそれ以上に喜んで食 べてくれる人間がいることが、料理上達の一番の近道であると思う。

もっとも本気で料理の勉強を始めたのは、以前、忙しさにかまけて適当に焼いた豚肉を食べて見事にあたった時以来か らだが。


今の時代、万一食中毒にでもなろうものなら、最悪死にいたるケースもざらにある。医療負担費が5割本人負担になって 久しい。当然、医療費は高額になり、ただでさえも少ない家計を圧迫する。そして、その費用を払えない人間に医療を受 けることなどできるわけもなく……食中毒はもちろん、ちょっとした風邪や肺炎でさえ死亡する。

春香の場合、医療費5割負担などと言う前に、国民健康保険がとっくの昔に保険税滞納で失効させられている。春香の 収入を考えれば、100年前なら保険税減額対象にもなりえただろうが、そんな制度は医療費5割負担になるずっと以前 に支出削減という名目で廃止になっている。
当然、医者にかかった時の負担はさらに増加するが、保険税を払うことなど、今の春香にはできない相談だった。


そんな春香の思考を押し流すように、峰雪はせっせと料理を口に運ぶこととマシンガンのように話し続けることに余念が ない。

さしもの春香も見かねて。

「食べるか喋るか、どっちかにしなさい。行儀が悪いわよ」
「えへっ、は〜い」

いたずらっぽく、ひとしきり笑ってから、また峰雪は箸と口をせわしなく動かしだす。
少し大げさにため息をついて見せても、自分の顔が笑っているのだ。峰雪から見ればちっとも怖くないだろう。


楽しい団欒の時間。
峰雪の笑みが消えることは無く。
楽しそうに彼女が話すことを、春香は幸せに聞く。

学校であった事。生徒を叱ろうとした数学の教師が足を滑らせて保健室に運ばれた事。給食で珍しく牛乳が出た事。
親しい友人との事。涼子ったら、なんだか新しいアイドルの追っかけを始めたみたい。でも、ライブに行くお金も時間も無 いから、追っかけも大変なんだって。あとね、帰り道で素敵な手袋見つけたの。とってもお母さんに似合いそうだったんだ よ……


幸せな時間。
幸せな場所。


ベッドと机を置けばそれだけで一杯になってしまうような狭い部屋。うちの部屋と言ったら、それだけだ。押入れすらついて いない(もっともついていたところで入れる物など無いのだけれど)。
それに、玄関へ続く2メートルも無い通路と、その途中に有るキッチンとトイレ。シャワーは共用だから部屋にはついてな い。
くすんだ色の壁紙に、お気に入りのブルーのカーテン。机の上の小さな卓上ライトに、部屋の隅には小さな本棚。隣にあ る引き出しがついた小さな戸棚。その上に峰雪にねだられて買ってきた小さなシクラメンの鉢植えが鎮座し、鉢に寄り添う ように、これも峰雪のために買ってあげた小さなクマのぬいぐるみが座っている。
むき出しのフローリングの床は丁寧に掃除が行き届いており、天井に取り付けられた蛍光灯は、今にも消えそうなぐらい 古びていながらも部屋の中を優しく照らしている……

ここは大切な場所だ。春香の、大切な場所だ。


「ごちそうさま〜。もうお腹いっぱい」

「ふふっ、お粗末様」

きれいに平らげられた皿を片付け、流しで水につけておく。こうしておいた方が、水を流しっぱなしにして洗うよりずっと水 が節約できる。水道費だって馬鹿にならないのだ。長年の生活から、こういうところで春香は細かい。


「さて、と……」

ひととおり片づけが終わると、時間はもう8時近い。

「峰雪、今日も授業しましょうか」

水仕事でぬれた手をぬぐいながら、春香はそう声をかける。

「うん!」

ベッドに座りながら、友人から借りたらしい雑誌に目を落としていた峰雪が顔を上げる。
いそいそとノートと教科書、それに、参考書を取り出す峰雪。

春香は、彼女のために机の上のライトをつけてやる。じーっとかすかな音を立てて、古くなった電球が机の上に黄ばんだ 光を落とす。

こうして二人で勉強するのが毎日の日課だ。
峰雪も、来年には中学3年。高校受験の時期だ。


今の時代、高校に進学する子供など全体の2割程度だ。高校進学にかかる費用を払えないと言うことも有るし、塾にやる 金の無い家庭の子供が、世間で言うところの「いい高校」に入れる事など、めったに無い。
そもそも、勉強する時間が合ったら、少しでも働いて金を稼がなければ、一家そろって飢え死にする事だって有るの
だ。どうやったって、勉強などしようが無い。

……もちろん、それは貧民階級の人間の話だ。「裕福な人間」の子供は、塾へ行き、「いい高校」に入る。そこから「いい 大学」へ入り、「いい会社」に入る。給料はもちろん良く、子供は「裕福な人間」になる。

高校へ行けない、あるいは大学に行けない、さらには大学まで言っても就職できない。そんな人間には、フリーターになる か、犯罪者になるか、野たれ死ぬか、それぐらいの選択肢しか用意されていない。

下流階級の子供は、一生、下流階級だ。当然、その子供も。その子供の子供も。

日本社会が生み出した、厳然たる階級・格差社会だ。


……この子に、そんな人生は歩ませたくない。

だからこそ、この子には仕事もさせていないし、こうして自分が勉強を教えている。


「じゃあ、国語から……今日は、文法のところだったわね」

峰雪が開く参考書を隣から覗き込む。
何度も何度も使われた跡の有る参考書だ。文章にも線を引いてあったり書き込みがあったりと勉強の跡がしのばれ
る。

この参考書も買ってきた時は綺麗なものだった。
どこかの裕福な家庭の子供が使っていたんだろう。古本屋で見つけたときは、最初の数ページにめくった跡があったもの の、それ以外は新品同様だった。見つけた時は、ようやく峰雪にまともな参考書を買ってやれると思って嬉しかったのを 覚えている。

裕福な家庭は使い捨てるように本を買えるのに、自分は一冊二冊買ってやるので精一杯だ。
うらやましいとは思わない。どれほど理不尽でも、これが現実なのだから。

ただ、もっときちんと本を買ってやりたい。勉強道具を買ってやりたい。できるなら、もっときちんと勉強できる環境を用意 してやりたい。

ふがいない。

そんな思いを、春香はぬぐいきれない。


「単語は、十一種類に品詞分解できたのよね。どういう風に分けられたんだっけ?」

「え、え〜っと、まず自立語になるか付属語になるかで分けられて……」

参考書のページを開き、品詞について書かれている部分を手で隠しながら、春香は聞く。
ここは一昨日勉強した範囲だ。あの時はちゃんと出来ていたけど、今はどうだろうか。

峰雪は鉛筆を下唇に当てて考え込んでいる。何かを頑張って思い出していたり、考えていたりする時の、小さい時からの 峰雪の癖だ。

「そうよ」

うなずきながら、先を促す春香。

「えっと、自立語の中で活用して、述語とかになれる……用言なのは、動詞、形容詞、形容動詞の3つ」

「どういう違いがあったっけ?」

「う〜ん、と……動詞は主に動作とかを表して、言い切りの終わりがウ段の音……走るとか泳ぐとか」

「形容詞と形容動詞は?」

「形容詞と形容動詞は、どっちも物の状態とか様子を表す言葉で、言い切りの形だと形容詞は『い』、形容動詞は『だ』で 終わるんだよね。形容詞は『美しい』とかで形容動詞は『きれいだ』とか」

ちょっと得意げに言いきる峰雪と、それを聞いてにこやかに笑う春香。

「そう。ちゃんと覚えてるわね」

「えへへ……」

峰雪は頭のいい子だ。
こうして、教えたことをどんどん吸収していく。
自分よりも勉強が出来るようになる日も、そう遠くないのだろうな、と春香は寂しくも思うが、同時に、母親として自分の娘 を誇りに思う。

「他のはどうかしら?」

「え〜っと……」

促す春香。また考え込む峰雪。
母娘の時間は、ゆっくりと、優しく、夢のように過ぎていく……



「じゃあ、今日はここまでにしましょうか」

「う〜、疲れたよ〜」

おおげさにうめいて机に突っ伏す峰雪を微笑みながら見下ろし、春香はコップに水を汲んできて傍に置いてやる。

「あ、ありがとう、お母さん」

おいしそうに水を飲みほす峰雪。自分も喉の渇きを覚えて、春香もコップに水を汲む。
汲むと言っても、普通の水道水だ。
金属臭いし、塩素臭いし、味も悪い。東京の水はまずい、というのが100年も前からの評判だ。

だが、塩素臭い、という点にだけは、春香は感謝してる。
塩素臭いからこそ、水道から直接水を汲んで飲めるのだから。


貧民街の6割強が、上水道の不備――整備されずに放置されているため劣化した――によって、塩素消毒されていない 水を使っている。所によっては、川から直接水を汲む、あるいは水を引いて利用しているのだ。

塩素消毒されていない水の使用。当然のごとく起こったのが、慢性的なコレラや細菌性腸炎の流行だった。

特にコレラの流行はひどく、昔――たしか、10年くらい前だ――大流行した時は20000人近くが亡くなったと言う。
エルトール型コレラなど、もうずっと昔に有効な抗生物質が見つけられていて、抗生物質と水分さえきちんと取っていれ ば、治療することは可能だと言うのに。

金銭的な問題によって治療できずに死ぬ人間が多いのだ。


そういうことを知っていたから、多少家賃が高くともちゃんとした上水道の通っているこの街を住居に選んだ。もちろん、治 安や交通の便もきちんと考えている。
峰雪のことを考えると、悪い場所には住みたくなかった。

(水道の水で食中毒が起こるなんて……100年前には考えられなかったでしょうね……)
そういう心配が無かったなんて、うらやましい話だ。


「シャワー浴びてくるね〜!」

峰雪の声でふと我に帰る。扉のところで着替えとタオルを持った峰雪が微笑んでいる。
今日の自分はどうかしてるな……ぼーっとすることが多い気がする。
心の中で苦笑し、春香は微笑を返す。

「いってらっしゃい、タオル、使い終わったら貸してね」

「は〜い」

ぱたん、と扉の閉まる音。
それを確認してから、春香はそっとスカートの中から銃を引き抜く。

蛍光灯の光を鈍く反射する黒鉄の輝き。
春香がこの厳しい世界で戦っていく牙でもあり、血塗られた人殺しの道具でもあり、峰雪には決して言うことができない
自分の暗い一面でもあり……

だが、こうして夢のような幸せな時間が流れるこの平和な場所で見ると、それはまがまがしさと同時に、ちっぽけな、玩具 のような安っぽさすら感じさせた。

気分が浮かないのは、人を撃ったからだろうか? もう、何人も殺してきたのに。


人を殺すのは、何度やっても慣れない。


銃の残弾数を確認して、問題が無いことを確かめると春香は銃を一番下の引き出しの奥に隠す。
峰雪には決して見られるわけにはいかない。この引き出しは自分がたいせつな物をしまってあると言ってあるから(実
際この部屋の賃貸契約書であるとか大切な物をしまっている)、あの子もそうそう開けようとするはずもないが、それでも、 念には念を入れたほうがいい。
そう、あの子には、決して見られるわけにはいかないのだ。

引き出しを開けても簡単には銃が見えないことを確認すると、春香は同じ引き出しから一冊のノートを取り出す。

家計簿だ。

それを机の上に広げて、春香は鉛筆を持つ。
細かく書き込まれている数字の群れの一番下、新しい部分に今日の日付を書き込む。
女性らしい、丁寧で美しい文字だ。

「えっと、今日の支出は……」

財布からレシートを取り出して、丁寧に内容を改めていく。卵が2個で48円、豚肉200gで360円、キャベツ4分の一個9 8円……

順に数字を書き込んでいき、合計額を出す。
続いて、収入欄。

「……14万2300円っと」

収入と支出をそれまでの総額と差し引きし、今の自分の財産を確認する。
しめて60万弱。

「少しは、貯まってきたわね」

家計簿に記されている数字は、一般的な貧民階級の人間の所持金とは比べ物にならないほど多い。
だが、これでも峰雪の教育費を捻出するには足りない。

「ふぅ、やっぱり大変ね……」

月単位で見れば赤字になる時だってある。
さらに貯めなければいけないとなると、なかなか苦しいと言うのが現状だ。

フリーターである春香は、今定職を持っていない。
一日中職を探して歩く日が続くが、どうしても苦しくなると今日のように犯罪に手を染める必要が出てくる。

鉛筆を握る春香の手に、力がこもる。

金を得るために、万引きした品物を闇市に売りさばいたことも有る。貧相な女の手から、かばんを奪い取ったこともある。 顔も名前も知らない相手を撃ち殺して財布を奪い取ったことも有る。

いつもいつも上手くいくわけではない。

今日は、通い慣れた場所で、運良くその辺りを縄張りにしているマフィアにも見つからず、しかも頭の悪い男が引っかかっ てくれたから、あれほど上手くいったのだ。
でなければ、あんな援助交際で(この言葉ももう聞かれなくなった)女子高生が親父狩りするのに使っていたような、ちゃち な手が通用するはずが無い。

今日だって、一歩間違えればあのまま路地裏で犯されていたか、ホテルの部屋で男に叩きのめされていたかもしれない。

(どっちも、慣れてるから構わないけどね……)

荒事に巻き込まれることなど良く有ることだし、金を得るために本当に体を売ったこともある。
ただ、そんな事になれば峰雪が心配するから、できるならそんな事態にはなって欲しくない。

まっとうな手段で金を得られるなら、春香だってそちらの方がいい。
だが、仕事に就きたくても、就くことができないのだ。


「はぁ〜〜〜〜」

一日の作業の中で、一番憂鬱な作業だ。考えも、嫌な方にばかり転がる。

「100万円ぐらい、手に入らないかしらね〜……」

何気なくつぶやいて、おもわず自嘲の笑みがこぼれる。
そんな金、一番危険なマフィア絡みの仕事を請けても手に入らない。

「……考えても仕方ないわね」

自分は出来る範囲で頑張ればいいのだ。
そう思い直し、春香は家計簿を閉じて引き出しに戻す。


ちょうどその時、扉が開いて峰雪が帰ってきた。

「ふぃ〜、いいお湯だったよ、お母さん」

タオルで湿った髪をぬぐいながら部屋に上がってくる峰雪を迎えて、春香は立ち上がる。峰雪がちゃんと髪を乾かしてい ないのを見て、ちょっと眉をしかめる。

「ちゃんと髪乾かさないで……寒くなかったの?」

苦笑しつつタオルを受け取る春香に、峰雪がふっふ〜ん、と意味ありげな笑みを浮かべる。

「やだ、何? 何かあったの?」

「うん! あのね、お引越しだよ」

「引越し?」

峰雪の言葉に理解が及ばず、春香は問い返す。
引越しの何がそんなに珍しいのだろう?

「そう。端っこの部屋に、男の人が引っ越してきたみたいなの。外にダンボールが積んであって、荷物を運び込んでた。
それがね」

と峰雪は心なしか上気した顔で続ける。

「すっっっっごくハンサムなの! アイドルみたい」

「ふぅ〜ん……」

ハンサムな男……と言うからには、若い男か。

(ロクなもんじゃないわね)

春香は、口にこそ出さないが心の中でつぶやいた。


ハンサムな男、ときたら、ほぼ間違いなく『デザイナー』だ。デザイナーベイビー、あるいはデザイナーチャイルド。最新の 遺伝子操作技術を用いて、デザインされて生まれてきた人間を一般的に『デザイナー』と呼ぶ。
それに対して、そのような事をせずに普通に生まれてきた人間を『ナチュラル』と呼ぶ。

貧民街にデザイナーが引っ越してくる……ときたら、職を失くして下流に転落した上流階級の人間か、どこぞのマフィアの 関係者か、警察の追跡から逃げてきた犯罪者のどれかだ。ちなみに、犯罪者の確率が一番高い。

春香の「ロクなもんじゃない」という感想も、あながち大げさではないのだ。


「そう、お母さんも見てみようかしら」

好奇心からではなく警戒心から、春香はそう口にする。

「うんうん! お母さんもきっとびっくりするよ〜。ほんと、素敵な人だったんだから〜」

両手を胸の前で組み合わせて、『乙女オーラ』をこれでもかとばかりに発する峰雪。

「ああいう顔立ちの人なら、いまどき珍しくないけど〜……話し方とか物腰とか、すっごく丁寧で洗練されてるの。『お嬢さ ん、これからよろしくお願いしますね』って! すっごく素敵な笑顔で! 格好とかも決まっててね? 黒い上下でスタイリッ シュにまとめてて、十字架のペンダントかけてるの。それがまたすっごく似合ってて!」

全開で振りまかれる乙女オーラに、さすがに春香も苦笑する。

「その人と話すために髪の毛乾かさなかったの?」

「だって〜、お風呂行く途中でちょっと話して、また会えるかな〜って思って……」

ちくり、と……ほんの少し、何かが春香の胸をつつく。
これは嫉妬だろうか? まだ見たことの無いその男に対する。

ちょっと照れたような峰雪は、春香の複雑な感情を感じ取ったのか慌てて付け加える。

「そ、それぐらいかっこよかったんだよ? お母さんとお似合いじゃないかな?」

屈託無く笑う峰雪。

「峰雪……お父さん欲しいの?」

「え?」

一瞬虚を突かれたように言葉を止める峰雪。
だが、すぐにその顔に狼狽が浮かぶ。

「え、えっと、そういうわけじゃなくて……」

あたふたと言葉を捜す峰雪。
それを眺める春香。

「……ふふっ」

やがて笑い出した春香を見て、峰雪もすぐにからかわれただけだと気づく。

「もうっ……お母さんひどい!」

「あははっ、ごめんね」

ちょっと峰雪がはしゃいでいるからと言って、自分は何を言っているのか。
こんな風にからかっても、この子は困ってしまうだけだ。父親がいなくても、自分と二人で今まできちんとやってこれた
し、峰雪は父親がいないことで自分に負担をかけていると思っている事も知っているのに。

「む〜……ほら、タオル!」

強引に春香の手にタオルを押し付けると、峰雪はさっさとベッドに座って雑誌を読み出してしまった。

ちょっとからかいすぎただろうか?
まぁ、たまには構わないかなとも思うが、帰ってきてまだ怒っているようなら謝らないといけない。

春香は、心の中で苦笑する。
やはり、今日の自分はどうかしている。

(それに……)

自分が結婚? いや、それ以前に男と交際?

そんなことありえない。

この世界で信用できるのは自分と峰雪だけだ。


「いってくるわね」

峰雪に声をかけ、靴を履く。
峰雪の言っていた男と言うのは、まだいるだろうか? いるようなら、どんな人間か確認しておきたい。危険がどうかを判 断するのも大切なことだし、もし峰雪に(悪い意味で)手を出しそうな男なら、最悪殺す必要が有るかもしれない。

引き出しの奥にしまった拳銃が、思い出される。

ルックスの良さも、身なりの良さも、物腰や雰囲気の良さも……全て、周囲をだますための物に過ぎない可能性だって有 るのだ。善人面をした悪人が多いことを、春香は身をもって知っている。

ちょっとだけ唇をかみ締め、覚悟を決めると、春香は扉を開け、共用の廊下へと出て行った。
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