序章
・・・・・・それは、私がまだこの世界のことを何も知らずにいられた頃のこと。
両親の帰りが遅い夜、姉さんは寝る前によく私にお話を聞かせてくれた。
悪い竜を退治した神様の話や、竹の中から出てきたお姫様の話。
古典の研究をしていた母親の影響なのか、姉さんは歳の割にそういった古い童話や伝承にとても詳しくて、たくさんの話を して聞かせてくれたが、その中で一つ、強く印象に残っているお話がある。
そのお話は他の物語と較べると何だか少し風変わりで、それにちょっと怖かったのだけれど、どういうわけか私はそれが 一番のお気に入りだった。
私がそれをせがむといつも姉さんは、これは本当は人に聞かせるためのお話じゃないのよ、と困った顔をしながら、それで も最後には聞かせてくれるのだった。
その世界の中心には、空に向かってどこまでも伸びる高い高い塔がある。
黄昏時の淡い夕日を浴びて、天国への階段のように神々しく輝いている。
塔の一番高い場所には女の子がいて、涙を流しながらうたを歌っている。
溢れる涙は塔を伝い地へと流れ落ち、涙が紡ぎ続ける清らかな調べは、光となって空へ昇っていく・・・・・・。
・・・・・・いつも私は不思議だった。
その『塔の上の女の子』の話には、昔話によくありがちなオチや教訓めいた意味のようなものが無くて、同時に物語としては あまりに断片的で説明不足のような気がしたからだ。だから私はある時訊ねてみたことがあった。
私はその時した会話をはっきりと――そう、姉さんの細やかな息づかいまで、十八年という歳月を経た今でも、鮮明に思い 出すことができる。
――どうして女の子は泣いているの?
それは、悲しいから。
――どうして女の子は悲しいの?そんなにすてきな場所にいるのに。
それは、誰も女の子のうたを聴いてくれないから。
――どうして誰も女の子のうたを聴いてくれないの?そんなに清らかな歌声なのに。
それは、その世界にはもう、誰もいないから・・・・・・。
・・・・・・耳障りな電子音が鳴り響き、私は強引に夢から醒まされた。
靄がかかったような起き抜けの頭で、それが電話の着信音だと認識するまでに若干の時間を要する。
ベッドから身を起こし相手の番号を確認してから、私は受話器を取った。
「藤沢ですが・・・・・・」
『エマージェンシーコール、レベル・ワン。〇九〇〇時にワーキングルームです』
「・・・・・・了解」
至極簡潔なメッセージだけを残して、受話器は沈黙する。
静寂が戻った寝室で、私は先ほどまで見ていた夢のことをぼんやりと考えていた。 |