第一章




二二二三年 十二月七日 
火星 日本国信託統治区域 イザナギ市

その来客があったのは、藤沢桜織が木目調の調度類と籐家具が落ち着いた雰囲気を醸し出す書斎で、出版社との打ち 合わせに使う書類に目を通していた時のことだった。
机上のインターフォンが赤く点灯し、桜織は顔を上げた。
隣の部屋の、秘書のミィリエからだ。
「はい?」
『先生にお客様がお見えです』
「客?でも今日は・・・・・・」
桜織は眉をひそめて訊ね返した。
『は、はい、それが、自衛軍の方だと申しておられるのですが・・・・・・』
ミィリエが逡巡しているのは、普段からアポを取っていない客の面会は原則として断るように指示してあるからだ。
しかし、原則とはあくまで原則だった。
――軍の人間が私に何の用なのかしら?
様々な疑問が胸をよぎるが、それは会ってみなければわからないことだった。
「・・・・・・いいわ。お通しして」
スクロールしていく投影ディスプレイを一時停止させると、接客用の表情を整える。
開いたドアから入ってきたのは、ダークグレイのスリーピースに銀縁の眼鏡を光らせた、初老の紳士だった。
中肉中背で、整った顔立ち。
軍人らしく、歳の割に背筋はまっすぐに伸びている。
桜織を見た瞬間、彼の眼光が一瞬鋭さを増したことに、桜織は気付かなかった。
「藤沢桜織さんですね?初めまして、自衛軍の黒田です。お忙しい中事前に連絡もせずお邪魔してしまって申し訳無い」
「いえ、こちらも丁度今仕事が一区切りついたところでしたの。どうぞおかけになって」
お定まりの社交辞令を済ませてから、応接用のソファを勧める。
ソファに腰を下ろし、ミィリエが淹れたハイビスカスティーに口をつけながら、黒田と名乗る男はいかにも興味深そうに壁の 書棚を見まわす仕草をしてみせた。
「しかし今をときめくベストセラー作家とこうしてお会いできるとは光栄ですな。
そうそう、私の孫もあなたの本の大ファンでしてね」
老人らしいゆったりした動作で席を立ち、桜織の著作が並んだ書棚の鑑賞を始める。
彼の物腰は一見リラックスしているようでいて、その実訓練されていて隙が無い。
「・・・・・・ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
なかなか本題に入ろうとしない黒田にじれったくなって、桜織は単刀直入に訊ねた。
中身の無い社交辞令的なやり取りも世間話も、桜織は本来好きではなかったし、そんなことに時間を割いていられるほど 暇でもなかった。
それを聞くと、黒田はやや苦笑気味に笑った。
「・・・・・・なるほど。やはり、似ていらっしゃる」
口元は温和そうな笑みを浮かべているが、眼鏡の奥にある目は笑っていない。
そういう笑い方をする種類の人間に、桜織はどこかで見覚えがあった。
「?それはどういう・・・・・・」
「いや、失礼。今日はあなたに関わる重大なお知らせがあって参りました」
唐突な台詞に戸惑う桜織を遮ると、黒田は背広の内ポケットから一枚のホログラフィー投影プレートを取り出す。
何の気無しにそれを受け取った桜織は、しかし次の瞬間、目を見開いた。
写真の中では、初々しい純白の制服に身を包み、そして・・・・・・桜織と瓜二つの顔をした女性将校が、少し緊張しながらも 温かい微笑みを浮かべている。
「この写真の女性が誰だか、おわかりになりますな?」
先ほどまでとは違い、年の功を感じさせる優しい口調で、黒田が問い掛ける。
「はい・・・・・・」
わからないはずがなかった。だがそれを口にしようとすると、改めて心が揺さぶられた。
桜織がその名前を最後に口にしたのは、もうずっと昔のことだったからだ。
「藤沢詩織・・・・・・今から十八年前に戦死した、わたしの姉です」
自分の発している言葉を聞きながら、桜織は心の中で一陣の風が吹き抜けていったような気がした。
長い間閉ざされていた記憶が解凍され、無数の情景が次々と浮かんでは消え、そうやっておぼろげだったものが徐々に 形を結んでいく。
よみがえるのは、喜び、悲しみ、切ない気持ち――そうした感情がないまぜになった、懐かしくて、遠い日々の感触。
失いたくなかった、けれどもう戻ってこないであろう、大切な時間。
心が、還っていく。
あの日々へ――。

それは――わたしがまだ、この世界のことを何も知らずにいられた頃のこと・・・・・・。

当時小学三年生だったわたしは、これといってごく普通の女の子だったけど、それでもみんなに胸を張って自慢できること がふたつあった。
ひとつは、漢字がやたらと難しい藤沢桜織――桜に織ると書いてサオリと読む――という自分の名前を、書き順を間違え ずにすらすらと書けること。
 そしてもうひとつは、世界で一番わたしを大切にしてくれる、大好きなおねえちゃんがいること。

わたしには、物心ついた頃から両親がいない。
どうしてだかはわからないけど、わたしにはお父さんもお母さんもいなかった。
でもそれが悲しいなとか、いやだなって思ったことが一度もないのは、おねえちゃんがいたおかげだった。
例えば、父兄参観の日。
他の子のお母さんは用事があって来れないこともあったけど、わたしのおねえちゃんはいつだって一番に駆けつけてきて くれた。
おねえちゃんはたいてい白い制服姿のままで、お化粧もしていなかったけど、きれいに背筋を伸ばして教室の後ろに立っ ているおねえちゃんの姿は、他のどんなお母さんよりも凛々しくてすてきだった。
いつだったか、その制服はどこの学校のなの、って聞いたことがある。
するとおねえちゃんはおかしそうに笑って、これは学校の制服じゃないんだよって教えてくれた。

これはね、私が仕事で着ている制服なのよ。

そう答えた時のおねえちゃんは、何だかいつもと違って誇らしげだった。
だからわたしは知りたくなった。
――お仕事?ねえ、それっていったいどんなお仕事なの?
答えは、すぐには返ってこなかった。
おねえちゃんはしばらく何も言わずに、その代わりわたしをぎゅっと抱き寄せた。
制服の胸に付いているかたいバッジがあたってちょっと痛かったけれど、そんなふうにおねえちゃんにぎゅっとされるのが、 わたしは大好きだった。
どれだけそうしていただろうか、おねえちゃんはふいにわたしの耳元で、秘密のおまじないを口にするかのように、小声で 囁いた。

遠い遠い空の上で、みんなをまもる仕事よ。
桜織や、学校のみんなが毎日学校に行けるように。
いつまでも元気に遊んでいられるように。
桜織と、桜織が生きていくこの世界が、ずっと幸せに溢れ、輝いているように。
そのために与えられた力でみんなをまもる、大切な仕事なの・・・・・・。

本当はおねえちゃんの言っていたことはとても大変なことで、世界はその瞬間にも大きく動き続けていたのだけれど、それ はわたしが後になって知ったことで、その時のわたしには『みんなをまもる』というのがどういうことなのか、『与えられた力』と いうのがどんなものなのか、よくわからなかった。
だからわたしはただ、おねえちゃんが立派な仕事をしているのだということだけを、素直に喜ぶことにした。
・・・・・・でも、どうしてだろう。
仕事の話をするおねえちゃんの言葉はとても誇らしげなのに、その声はどこか寂しそうに聞こえた。
わたしにはそれが気になったけど、でも子どもだったその頃のわたしには、どうしてなのかやっぱりわからなかった。
わたしとおねえちゃんの日々は、そんな風に過ぎていった。
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