| An Encounter ――私のある一日の出来事―― 水銀党 |
![]() 今日を生きるために 手にした剣 清らかな言葉背負って 『星空のレクイエム』(2001年作詞)より この星の土を踏むのは、もう何十年ぶりだろう。 私が生まれ育った故郷。 宇宙に昇りはるか遠くの任地に赴く仕事を選んだ時は、もう二度と戻ることは無いだろうと思ったものだ。 まさかそう遠くない将来に、それも喜ばしくない理由で再び地球に降りることになろうとは、予想だにしていなかった。 この世界は皮肉なことで満ちていると思うのは、私の考えすぎだろうか。 大陸の横にはみ出したように浮かぶ、龍のような特徴的な形状をした列島。 この小さな島が、我々の母国。 私が守ってきた場所。 ――そして、彼女が守ったものの一つ。 いや、感傷はよそう。過ぎたことだ。 列島の丁度真ん中に位置する都市は、ここ百年で世界に巨大な勢力圏を築いた国家の中枢。 繁栄の象徴。 そしてその勢力圏が有事にある今、この国が守るべき最後の砦。 今回の私の旅の目的地だ。 私の名前は黒田。 日本国航宙自衛軍の二等宙佐だ。 宙自の軍人といっても、今はもう目立つ真っ白な制服を着たりはしない。 民間人にとけこめる、地味なスーツ。 現在所属している部署の名前は防衛秘密なので明かせないが、情報関係のセクションである。 だが今回の訪問は、私のそういった仕事とは関係ない。 人探し。 この混乱した世界でもう何年も、一人の少女を探している。 似合わないと、よく言われる。 それでも続ける。 それが私の、務めなのだ。 「新宿――新宿でございます」 プラットホームに一歩足を踏み出す。 さいたま国際宇宙港からの特急列車は、概ね快適だった。 新しい路線だからだろうか、さいたまからここまでずっと地下トンネルで、地上の様子がまるで見えないことを除けば。 昔の記憶が正しければ、新宿から市ヶ谷まで総武ラインで行けたはずだ。 私は特急列車の専用区画から外に出ることにした。 新宿駅の地下構内は、複雑な鉄道網を持つ本国でも、最もいびつに入り組んでいるとされている。 いっそのこと地上に出た方が移動しやすいだろうと、私は出口を上がった。 この国の首都に相応しい、美しい都市が眼前に広がる。 ふわりとやわらかく浮かぶ綿雲から太陽の暖かい光が差し込み、屹立する高層ビル群のガラス張りの壁面に反射してきらきらと輝いている。 この星の季節は今、冬。 せわしく行き交う人々は、秋に新調した長袖の服に厚手のコートを羽織り、後少しで訪れる年末を迎えるために忙しく立ちまわっていた。 デパートのショーウィンドーには、宇宙では珍しくて手に入らない流行の最先端を行くブランド物がずらりと並び、街角ではクリスマス商戦の宣伝のためか、ロボットのサンタクロースが子どもに風船を配っている。 遠い宇宙で育つ日本人の子どもが学校で教わる通りの、美しく平和で華やかな、本国の光景。 守るべきもの。 複雑な気持ちで周囲を眺めながら、私は乗り換え場所を探して歩いた。 どうやら、道に迷ったらしい。 東口に行こうとしたのだが、どこかで反対方向に曲がってしまったようだ。 こうなるなら地図を持ってくるべきだったと後悔しながら暗い路地に入った私は、次の瞬間愕然となった。 表通りから、少し足を踏み入れただけだというのに。 そこには、美しさも華やかさも欠片も無い、退廃した世界が広がっていた。 ひどい腐臭が、鼻をつく。 道を歩いていると、たちまち物乞いの子どもから娼婦までありとあらゆる金目当ての人間が、私を取り囲んだ。 みすぼらしい、ボロのような服。 栄養失調であること間違いなしの落ち窪んだ眼窩の下で、目だけがぎらぎらと光っている。 口々に何か叫んでいる。 めぐんで欲しいか土産物を買って欲しいか自分の身体を売りたいか・・・とにかく金、金、金。 私は不思議な既視感を覚えた。 こういう体験を、以前もしたことがあった。だがそれは確か、情報収集目的で株式会社クサナギの陸戦隊に同行して、金星のアジア系難民キャンプに入った時だ。 ここは本当に日本なのだろうか?私は目を疑った。 表通りとこことのいわば『境界線』を見張っていた警官が走ってきて、あろうことか平然と拳銃を抜いて彼らを乱暴に追い払った。 「旅行者の方ですか?」 あっけにとられつつも私がそうだと答えると、顔立ちの整った若い警官は、やっぱりという具合に頷いた。 「ここから先は治安があまりよくありません。奥に入らないことをおすすめします」 本当はただ道に迷っただけだったのだが、入るなといわれたら入りたくなるのが情報将校のサガなのを、このやけに美男子な巡査はわからないのだろうか。 私は苦笑しながら、身分証を差し出した。 「私もこういうものでね。ご心配なく、自分の身ぐらいは守れますよ」 「え!?・・・はっ、失礼しました!」 巡査は青くなって敬礼し、慌てて立ち去っていく。 どこの星でも、自衛軍と自治体警察の仲はあまりよろしくない。 さわらぬ神にたたりなしと思われたのだろう。 その時だった。 遠くに立つ安ホテル――恐らくその手のいかがわしい宿だろう――の方から、銃声がこだました。 だが私が驚いたのは、銃声そのものではなかった。 立ち去っていく先ほどの警官を見ると、彼は確実に銃声が聞こえたはずなのに、まるで何も聞いていないかのようなふりをして、そのまま自分の持ち場に戻っていくのである。 そしてまた『境界線』の監視を始める。 呆れるよりも、悲しくなった。 これが、我々が守ってきたものなのか。 今も宇宙では、多くの兵が生命を散らしている。 私のような本国の生まれではない。宇宙で生まれ、宇宙で育ち、この日本の地をその目で一度も見たこともない若者達が、此処を楽園と信じてそれを守るために生命をかけている。 その楽園の実態が、この有様なのか。 胸が空虚になった。 銃声が聞こえた方に、努めてゆっくりとした足取りで近付く。 銃声のあったホテルのカウンターでは、従業員がのんびりと清掃業者に電話をかけている。 と、ホテルの裏口から、人影が顔を覗かせた。 若い女だ。 私はすれ違いざま、女の前でごく自然に足を止めた。 女はさっと、警戒した眼差しを私に向ける。 おや――私は内心で驚いた。 この裏通りの通行人には珍しい端整な顔もそうだが、何より彼女のその、鋭い目にだった。 身なりは決して良くは無い。 だが軍人である私にとって重要なのは、服装では無かった。 彼女のその目は、先ほど私に群がった人間とも違えば、立ち去って行ったあの怠慢な警官とも違った。 少なくとも、愚か者の目ではない。 「失礼・・・・・・」 ごく平凡で愚鈍な田舎者の旅行者が出すような声で、私は女に話しかけた。 女は相変らず、警戒した様子で黙っている。 「道に迷ってしまいまして・・・新宿駅はどちらでしょうか?」 質問しながらそれとなく観察する。 女の着ているワンピースには、ごく微小だが赤い斑点がある。 残念ながらケチャップではない。ケチャップはこんなに鉄分の匂いが濃くない。 しかもかすかな火薬の匂い。 鼻が良すぎるのは、私の困った特技だ。 私の質問を聞いて、女はかすかに表情を緩めた。 それでも、私から絶妙の距離をおいている。 賢明な動きだ。 「あっちよ」 そっけなくそれだけ告げて、私が歩いてきた方向を指差す。 振り返って礼を言おうとした時には、女は既に雑踏に入った後だった。 乱雑に積み上げられたエアコンの室外機の風をあびて、女の長い艶やかな黒髪がなびき、やがて人ごみの中に消えていく。 その光景は、私に遠い日に見た何かを連想させる。 通りすがりで初めて会った、恐らくは犯罪者の女。 もう二度と会うことも無い、たったそれだけの遭遇だろうに・・・・・・。 不思議ととても、懐かしい気がした。 表通りに戻って今度こそ電車に乗ろうとしていると、背後からクラクションの音がした。 振り返ると、オリーブ色の国産車が停まっている。 車体の側面には、宙幕監部、と白文字で書かれていた。軍の公用車だ。 助手席から、第二種常装を着た士官が降りてくる。 「黒田二等宙佐殿ですね?」 頷くと、若い士官は制靴の踵を合わせて折り目正しく敬礼した。 「近藤一佐の命令で、お迎えに上がりました。申し訳ありません、駅で行き違いになってしまったようで」 「いや、私こそ勝手にふらふら出歩いて申し訳ない」 苦笑して、私は車の後部座席に乗り込んだ。 助手席に乗った士官が運転手の兵士に何事か命じると、運転手は赤色灯を取り出して、車の上に装着した。 警察や消防の車輌が緊急時に使うものだ。自衛軍も有事の際は使用が法律で認められているが、今は果たして有事なのだろうか。 「サイレンの音が耳障りなのはご容赦下さい。これを付けて走ると、時間が短縮できますので」 こともなげに、士官が振り返って私に説明する。 その顔は、自分は合理性を重んじて当然の措置をとっているのだといった風で、罪悪感の欠片もない。 赤色灯が回転し、けたたましいサイレンが鳴り始める。 あらゆる信号と制限速度を無視し、他の車や通行人を蹴散らして宙自の公用車は市ヶ谷へと走り始めた。 私はもう、笑うしかない。 そのエリアの呼称は、住人によって異なっていた。 古くからこの土地を管轄してきた陸自は、自らがこの地の正統な主であるという意味を込めてここを『陸上自衛軍市ヶ谷駐屯地』と呼び続けている。 後から加わった海自と空自、そして最も新参者である航宙自衛軍は、控えめに『市ヶ谷基地』と呼んでいた。 四軍の妥協の産物としての総称は『市ヶ谷地区』。 そして、何もつけずにただ『市ヶ谷』と称する場合、それはここを所在地とする防衛省本省の全施設を意味していた。 皇居、赤坂離宮、靖国神社などを睥睨して高台に林立する、十数棟の青灰色の建造物。 二十世紀末に完成した建物は古びてこそいたが、まさしく微動だにしない国防政策の中枢であった。 数十年前に首都圏を襲った大地震でも、この建物は崩れなかった。その耐震性は、全世界から高く評価されている。 いかめしい門構えの正面玄関を入ってすぐにそびえるA、B、C、D、Eの五棟には、内部部局、統合幕僚監部と陸海空の三幕僚監部、それに極東最大の諜報機関といわれる防衛省情報本部のオフィスが入り、文民・軍人合わせて数千人のスタッフが常時勤務していた。 その重要性から警備は政府関係の施設では最高レベルの厳重さである。西部地区に警視庁第五機動隊が駐留しているばかりでなく、陸上自衛軍の東部方面警務隊と第三二普通科連隊が有事に備えて睨みをきかしている。さらに敵の航空爆撃、果ては核攻撃を受けてもその司令部としての機能を維持できるように、地下奥深くには巨大なシェルターが掘られ、地上と同じだけの設備が用意されているほどだ。 航宙幕僚監部のオフィスは、しかしこれら施設の中枢から北に少し外れた場所にあった。航宙自衛軍の創設時、市ヶ谷の本省舎は元からある部署で既に満員だったからだ。 元は財務省研修所が建っていたのを取り壊して新しく建てられた『F棟』と呼ばれるビルが、横にある内閣衛星情報センターと合わせて宙自のエリアになっていた。 若い士官に案内されて、エレベーターでF棟の上階に上がる。 二十階にある広々とした執務室で、近藤は私を待っていた。 「おお!久しぶりだなあ、黒田!よく来た!」 長身で恰幅の良い高級将校が満面の笑顔で駆け寄ってきて、私の肩をたたく。 彼が近藤。私の防衛大時代の同期で同郷、市ヶ谷で働いている友人の一人だ。 「部下から聞いたぜ、お前新宿駅で迷子になって歌舞伎町うろついてたんだって? 確かにあの駅はぐちゃぐちゃしてるが、どう迷ったらあんなところまで行くんだよ! 相変らず面白い奴だよな、お前って!」 がっはっはと豪快に笑う。 昔から近藤は、こういう陽気な男だ。 「いやはや・・・お恥ずかしい限りだよ。しかし君も変わらないね、同期の中では一番乗りで一佐に昇進だから、きっとさぞかし苦労してると思ったんだけど。元気そうで何よりだ」 私は純粋に賞賛した。 この市ヶ谷で、こんなに立派な執務室を与えられているのだ。大した出世といえる。 「なーに、運が良かっただけだよ、俺は。まあ確かにここでの宮仕えは苦労もあるけどな。 背広組の石頭連中とかさ、あいつらとやりあってるとたまに陽電子砲でまとめて吹き飛ばしたくなるんだよ!スカッとしそうだろ?」 「相変らず怖い冗談を・・・・・・知ってるか?陽電子砲は地上で使うと、放射能汚染の危険があるんだよ?」 私が苦笑いしながらそう返すと、近藤はまた大笑いした。 「そのどこかずれたお前のツッコミを聞くのも久しぶりだぜ!いやー、防大時代が懐かしいなあ。・・・ささ、長旅で疲れただろう!まずは座って休めや」 イタリア製のゆったりしたソファを薦められる。 同時にドアが開き、近藤の副官がチーズの盛り合わせを運んできた。 ポンレヴェック、シェーブル、ミモレット・・・・・・宇宙ではまずお目にかかれない、一流レストランで供される高級品ばかりだ。 近藤はリーデルのボルドーグラスを二つ片手にぶら下げながら、慣れた手つきで背後の戸棚を開ける。クローゼットか何かだと思っていたそこは驚くべきことに、ワインクーラーになっていた。ぎっしりとボトルが詰まっているそこからするりと一本取り出し、私の向かいにどっかりと腰を下ろす。 「タイタンでは大変だったんだって? さすがにお前もやばいんじゃないかと心配したよ。ほんと、よく無事に引き揚げてこれたな」 そう言った近藤の顔には、旧友の無事への安堵と喜び以外の何も無い。 それは私もわかっている。 それでも、ちくりと胸が痛んだ。 私が表情を暗くしたのに気付かずに、近藤は持ってきたワインを自慢げにテーブルにおいて説明を始める。 「お前をもてなすのに中途半端なもんじゃ失礼だと思ってなあ、家のセラーに寝かしてあったムートンを持ってきといたんだよ。俺のせがれの生まれ年なんだが、これがまた偶然中々の当たり年で・・・・・・っておい、どうした黒田?」 「すまないが・・・・・・今は、そういう気分じゃないんだ」 グラスを近藤に返す。 昔は、ワインもチーズも大好きだった。 近藤と二人で、よく飲み歩いたものだ。 でも、タイタンから帰って以来、どういうわけか、何を食べても飲んでも、美味しいと感じない。 これも、罰なのだろうか。 近藤は、私が暗くなった理由に気付いたようだった。 彼は鈍くて失言も多いが、しかし善良な人間だ。 防衛大を卒業した私が規定コースである市ヶ谷勤務でなく、宇宙へ上がることを選んだ時彼がくれた言葉が、私には今も忘れられない。 「・・・・・・すまん、俺こそ、無神経なことを言った」 彼は詫びて、シャトー・ムートン・ロートシルトをワインクーラーに戻すと、五大シャトーなどではないもっと安いボルドーワインを引き抜いてきて、栓を抜いて自分のグラスにだけどぼどぼと注いだ。 シャトー・ヴェルサンヌ。私が地球を離れる前最後に彼と会った夜、「俺がいつも自分で飲むハウスワインだ」と渡されて飲んだのを覚えている。 近藤は、あの時から本当に変わってない。 私にはそれが、とても羨ましかった。 「そうそう、お前から頼まれた調査なんだが・・・・・・」 ひとしきりワインをあおってから、近藤は話題を変えた。 「どうだった?」 私も身を乗り出す。これが、今回私が地球に降りてきた目的なのだ。 近藤は、申し訳なさそうな顔をした。 「防衛省の方で管理している復員名簿は、全部調べさせた。お前の探してる藤沢桜織っていう少女だが・・・・・・残念だが火星には見つからなかった」 「そんなはずは・・・ガニメデの自治行政局には、確かに火星に疎開したという記録があったんだぞ?」 「そこからさらに疎開したのに、データが欠損しているという可能性もある。 すまん、わかってくれ。 火星にもとうとう〈レギオン〉の空襲があったって話は聞いてるだろう?さしもの『赤レンガ』の連中もお膝元を派手にやられて真っ青らしいが。 今は戦時下で、どこの役所も大混乱なんだ。情報が錯綜してる。 平時のようにはいかんよ。犠牲者は勿論だが、内地に引き揚げてくる避難民も膨大すぎて、正確な数や行き先が把握しきれていないのが現状だ」 「そうか・・・・・・」 無駄骨だったと知っても、さして失望はしなかった。 こんなに簡単に見つかるなら、もっと早く見つけている。 考えられるところをまわって、辛抱強く一つ一つ可能性をつぶしていく・・・情報収集の基礎を、ただ繰り返すだけのことだ。 「・・・わかった。忙しいのに協力してくれてありがとう」 「おいおい、礼なんてよしてくれよ。わざわざ地球まで来てくれたっていうのに、本当にすまんなあ。 しかし・・・この桜織ってのは、何か?戦友さんの娘とかか?」 「似たようなものだよ」 私はそれだけ言って、話題を変えた。 「ところで・・・本国は、いつからこんな有様なんだね?」 窓の外に広がる都心を振り仰ぐ。 超高層ビルが林立し、その合間をぬって張り巡らされた高速道路を無数の車が流れている。 さらに建設中のビルがいくつも見えた。 こうやって上から見下ろすと、一見少しのかげりもなく繁栄を謳歌し成長する都市。経済大国日本の力強さを象徴する光景だ。 だが勿論私が聞いているのは、そんな上辺の繁栄ぶりについてではなかった。 この都市の抱える闇はあまりにも大きい。 「・・・・・・確かにな」 私の言わんとしていることを察して、近藤は苦笑した。 「宇宙から降りてきたばかりのお前は知らなかったかもしれんが、昨今のこの街の治安の悪化は目を覆わんばかりだ。 このエリアは軍が直接管理しているから安全だが、お前がさっき迷い込んだあたりなんかは、警察も放置している区域だ。 俺だって怖くて一人歩きはできん。 気をつけろよ。下手すればバラされて臓器工場に送られるぞ」 近藤は笑ってはいたが、あながち冗談には聞こえなかった。 「本国でこれほど多くの国民が貧困にあえいでいると宇宙植民地の住民が知ったら驚くだろうが・・・・・・やはり経済政策の失敗かな?」 「これで成功したと思ってるらしいぜ、委員会のお偉方は」 はき捨てるように答えて、近藤が首を振る。 「委員会・・・総理直属の、経済財政諮問機関か?」 「そうだ。有識者を集めて云々ってやつだが、要は企業や利益団体のロビィストの集まりさ。国民の生活のことなんか何も考えちゃいない・・・・・・なあ、黒田」 近藤が急に声を低くし、私は目を細めた。 「今のこの国は、どうかしてるとは思わんか? 国会は企業と利権団体のロビー活動で金まみれになっていてまともに機能しない。政府は霞ヶ関の言いなりだ。 泥をかぶるのはいつだって現場さ。 その結果は、見ての通りだ。 東京では今や、都民の半数以上が食用ネズミやゴキブリをご馳走だと思っているって内閣府の統計さえある。報道されちゃいないがな。 それだけ民が飢えてるんだ。もしここに、〈レギオン〉におわれた避難民が宇宙から押し寄せてきたら、この街はどうなる?」 私は返事ができなかった。 想像するだけで怖ろしい。 しかし同時に、近藤が最終的に私に何を言いたいかも読めた。 「国民は、強い政府を必要としている」 ミモレットをくちゃくちゃとかじりながら、近藤は呟く。 私は肩をすくめた。 「やれやれ・・・・・・結局君の話は、いつもその結論に行きつくな」 「お前が何を言いたいかはわかってるさ。政治は軍人の本分じゃない、だろ? だがな。俺もお前も岩手県民だ。 餓死や身売りの話を子守唄で聞きながら育った、岩手の農村の出だ。 おとぎ話でしかなかったはずの大昔の過ちを、今またこの時代で繰り返すのか? 俺達軍人が守るべきものはなんだ?」 「軍部が主導した革命が、成功した例はないよ」 私は首を振る。 既に自衛軍に身をおく、それも高職の人間同士が防衛省の中でするには危険すぎる会話になっている。 「革命とは民衆が起こすもの。軍部が率先してやればそれは2・26事件と同じクーデターだ。 どんなに理想が高潔でもね・・・・・・止めとけば?」 「・・・・・・冗談だよ、勿論」 近藤は鼻を鳴らして、再びチーズを平らげにかかった。 「そりゃあ俺だって、こうやって資本主義ってやつの恩恵を受けてるしな・・・本当に食わないのか?」 「ああ、私は結構」 確かに、近藤が今口に放り込んだチーズの一切れの値段で、下界の住人は一週間は生活できるだろう。 それを考えると急に、この居心地の良いオフィスで何を話しても偽善のように思えてくる。 私のその考えを見透かしたように、近藤は続けた。 「そう、もし何かやばいことが起きるとすれば、俺なんかよりもっと腹ペコな奴が起こすだろう。 だから多分そいつは、俺なんかよりもっと過激なことをしたがるだろうな」 近藤は間をおく。 気のせいだろうか、部屋の気温が、少し下がったような感じがした。 「そういう奴らが立ち上がってからじゃ遅いとは思わんのか?」 私は、それに反論できない。 と、近藤はにやっと笑った。 「なーんてな。 そう深刻な顔をするな。今のところ俺達は、シビリアンコントロールを律儀に守ってる。 だが、もしも宇宙での戦争が今後も膠着状態で、財政的に厳しい状態が続くなら、本国でどんな間違いがあってもおかしくないってことだ。 まあこれはあくまでもしもの話さ。 そんなことにはならないよな。だってお前さん方が、じきに〈レギオン〉を太陽系の外まで追っ払ってくれるんだろ?」 「勿論。そのための航宙自衛軍だ」 誰かが昔、同じことを言った。 自分でそう答えながら、私は虚しさにとらわれていた。 席を立つ。 「お、どこへ行くんだ?」 「・・・・・・ちょっと外の空気を吸おうと思ってね。散歩さ」 「おいおい、この街の空気なんか吸っても、不健康なだけだぞ」 近藤は目をぱちくりさせる。 「観光なら、明日一日空けてあるからどこへでも連れてってやるし・・・出るならせめて護衛を連れて行け。外は危険だ」 「要らないよ。子どもじゃあるまいし」 私がそう返すと、近藤は何を言っても無駄だと思ったのか、やれやれと溜め息をついた。 「・・・・・・今夜は酸性雨注意報が出てるからな。早めに帰ってこいよ」 私は片手をひらひらと振って、豪華な執務室を後にした。 外の空気を吸いたいという言葉に偽りはなかった。 といっても、実際に息がつまりそうだったわけではない。 純粋に空気のことをいうなら、汚染された外の空気よりも、BC兵器にも対応するフィルタを通して浄化された防衛省の空気の方が美味しいだろう。 そうではなくて、もっと抽象的な、心の問題だった。 こんな感傷的な考えをするとは、この数年で私も老けたのだろうか。 ただ外を歩いて気分転換をして、頭の中を整理したかったのだ。 四ッ谷から信濃町にかけての道を、目的もなく歩く。 ここは『表通り』らしく、綺麗に街路樹が整備されていた。 東宮御所や赤坂離宮などがあるせいか、警察の詰め所がやたらと目に付く。 信濃町に入って明治通りを進んでいると、まるでヨーロッパの宮殿のように贅を尽くした、ネオ・ロココ様式の建造物がそびえているのが目に入った。 こういうすさんだ時代になると、人々は現実に疲れ、様々なものに救いを求める。 それは例えば麻薬。例えば右翼ないしは左翼の過激なアジテーション。 そして、例えば新興宗教。 それは宗教団体の本部ビルで、本国で人心の不安を利用して急成長することに成功したようだった。 集票団体としても機能し連立与党として現政権に参加しているらしく、ビルの入り口には団体の政治的スローガンとおぼしき標語が掲げられている。 『暮らしに活力』『雇用の創出』『ヒューマニズムの実現を』。 さらに近藤が先ほど言っていた暗黒街の臓器売買の全面規制をこの団体は公約に掲げているらしく・・・・・ 『内臓を売っても良いとは言わせナイゾウ』 本当にそう書いてあった。 太陽系のあちこちの星をまわってきたが、政治団体のスローガンでこんな駄洒落を見たのは初めてだった。 この宗教団体は、きっと教義も駄洒落なのだろう。 もう、笑うしかない。 ふと、生鮮食料を扱うスーパーマーケットが目に留まった。 店の外に新鮮な食材が並べられ、威勢の良い店員が道行く人に今日の特価商品を売り込んでいる。 退廃と欺瞞と虚飾に満ちたこの街で、そこだけが自然な生気があるように感じられた。 東京の人々は、どんな食生活をしているのだろう。 近藤の話では、食用ネズミやゴキブリで暮らしているのが当たり前というが・・・・・ 怖いもの見たさで、私はスーパーに足を踏み入れた。 幸いなことに、ネズミもゴキブリも売っていなかった。 鮮魚コーナー、肉コーナー、野菜コーナー、乳製品コーナーとあり・・・・・・劣悪でなく、高級でもない、ごくごく普通のスーパーだ。 この街に来て初めて、まともな世界に戻ったような気がした。 タイタンの氷室にいた頃、新しい料理の研究をするたびに近所のスーパーに通ったのを思い出す。 いつだったか、こうやって食材を品定めしている最中に、偶然同じ店で買い物をしていた彼女と正面衝突して・・・・・ ゴツン。 「きゃあっ!」 衝撃。 横の棚に詰まれた焼肉のタレがばらばらと落ちる。 若い女性の悲鳴。 曲がり角に突っ立って回想にふけっていた私がいけなかったようだ。 不覚だった。私も本当に老けたらしい。 「これは失礼を・・・・・・おや?」 詫びを言おうとぶつかった女性に向き直った私は、目を丸くした。 「あなたは・・・・・!」 女性の方も私に気付いたようだった。 ・・・何か縁でもあるのだろうか。奇妙な偶然だ。 私はにこやかに会釈した。 「これは奇遇ですな。昼間はお世話になりました」 警戒するような戸惑ったような表情を浮かべる彼女からは相変らず、血と硝煙の匂いがする。 鼻が良すぎるのは、本当に困ったものだ。 「そのキャベツは若干ですが痛んでますな。収穫の時に乱暴に扱ったせいでしょう。同じ98円なら、こちらを買った方がいい」 野菜売り場に積み上げられた四分の一お徳用キャベツを前に親切にアドバイスする私を、女は胡散臭げに睨み付けた。 「・・・・・・なんで勝手についてくるのよ。それに私には、どれも同じキャベツにしか見えないけど?上手いこと言って私に毒入りのキャベツでも買わせるつもり?」 どうして彼女はこうも私を邪険に扱うのだろうか。 この広い東京で、一度ならず二度も、それも違う場所で偶然出会ったのだ。もう少し愛想良くしてもいいだろうに。 私は悲しげに溜め息をついてから、理由を丁寧に説明した。 「ノンノン、匂いですよ、マドモワゼル。私は鼻が良いんです。貴女が今手にしておられるそのキャベツには、若干ながら痛んだ匂いがします。ほら、ここの部分が黒ずんでいる」 「残念でした、私は娘がいるからマドモワゼルじゃないの!そもそも、あなたの鼻なんて信用できないわ」 ほう、食材の何たるかもわかっていないくせに、言ってくれるではないか。 フランス語を理解できるということは、意外と教養があるようだが。 ならば私の能力を信用せざるを得ない、決定的な証拠を突きつけてやろう。 こういうことを指摘するのは紳士としての品性に欠けるので気付いても黙っていたのだが・・・・・・ 私は胸ポケットから、私が朝使っているうがい薬を取り出した。 「それから、差し出がましいですが食前にはこれで口をゆすがれることをお勧めします。 変なものが口に残っておりますと、わかる味もわかりません」 効果覿面だった。 女の顔はまず真っ赤になり、続いて青くなり、そして私から飛び退って距離をとった。 スカートの裾にあるふくらみに手が伸びている。 良い反応だ。本国は徴兵制が敷かれていたと聞いたから、軍にいた経験でもあるのだろうか。 「・・・・・知ってて尾けてたのね。私服警官?マフィア?」 「いいえ、本当に偶然ですよ」 キャベツから目を離さずに、私は答えた。 周囲には客や店員がいる。万引き対策の監視カメラも回っていた。ここであまり派手に動くのは賢明ではない。 動きは悪くないのだが、その辺はまだ、素人のようだ。 「私は自衛軍の者で、今日地球に降りてきたばかりです。この街の治安維持に関して、いかなる責務も権限もありませんよ」 「・・・自衛軍?」 疑いの目を向けられた。私は肩をすくめる。 「そう。国を守るためという理由で合法的に人を殺せる組織の人間ですよ。 どうです、親近感がわきましたか?」 そう告げて、私はそこにおかれた中で一番鮮度の良いキャベツを女のかごに放り込む。 キャベツがかごにおさまるすぽん、というどこか間の抜けた音がした。 女はしばらく呆れたような顔をして、黙って私とキャベツを交互に見ていたが、急に吹き出した。 「?・・・何かおかしいですかな?」 「いえ・・・・・・なんだかよくわからないけど、敵では無さそうね」 笑いを抑えながら、女はウィンクする。 最初に出会った時の、どこか張り詰めた険しい表情ではなかった。 「次は卵と豚肉を買いに行くの。よかったらまた選んでくれない?」 「喜んで」 その答えに満足したのか、彼女はあごをしゃくって先に行けと促した。 背中を見せないあたり、まだ完全には信用されていないようだ。 賢明なやり方だ。こういうタイプな戦場でも生き延びる。 彼女を後ろに連れて、私は肉のコーナーに向かう。 「たった二個の卵で玉子焼きをつくろうなんて、正気の沙汰じゃありませんぞ!これではオムレツが限界ですな、せめて四個はないと・・・」 「仕方無いでしょう、今月はピンチなのよ!ほらさっさと選ぶ!」 「うーむ・・・・・」 すたすた。 「ちょっと、豚肉一つでいつまで時間かけるつもりよ!日が暮れるわ!」 「まあ落ち着きなさいマドモワゼル。食材は焦って選ぶと後で後悔しますぞ」 「だから私はマドモワゼルじゃなーい!」 自分でもよくわからなかった。 どうして私は出会ったばかりの、それも凶悪犯罪者のこの女に、こんなに親しげに接しているのだろう。 こんな姿からは信じられないだろうが、私は本来は、知らない相手にはそれほど積極的にアプローチするタイプではない。 こんなところを近藤に見られたら、きっとまたどんなにか笑われるだろう。 長旅で疲れて、正常な思考が麻痺しているのかもしれない。 だが、それだけではないような気がした。 肉を選びながら、改めて彼女の横顔を見る。 どこか似ているのだ、この女性は。彼女と。 それは長くて美しい黒髪だったり、顔の輪郭だったり、体形だったりもするが、もっと根本にあるのは、何と言うか、雰囲気だった。 そしてその澄んだ目に宿る、強い意志か。 総監部の会議で意見が合わなくて対立した時は、よくあの目で睨まれたものだ。 怒っている時の声や仕草まで、よく似ている気がした。 だからついつい、大人げもなくからかいたくなってしまう。 何もかもが、懐かしい。 ・・・・・・哀しさと後悔で、気が触れたのかもしれないな。 ふと、気が沈んだ。 自分は何を変な想像をしているのだろう。 今目の前にいるこの女性は彼女とは違う。それを自分の懐古のために利用するのは愚かな行為だし、この女性に対しても失礼だ。 「・・・ふふっ」 女の笑い声で、私は我に返った。 顔を上げる。 面白そうな顔で、女が私を覗き込んでいた。 「そうやって真剣に食材を選んでるのを見てると、何だか軍人というより、本当にプロのコックさんみたい。 白い帽子と前掛けがよく似合いそうだわ」 どうやら私が難しい顔をしていたのを、肉を選んでくれていると思ったようだ。 その笑顔には、もう当初の猜疑心はなくなっていた。 何だか申し訳ない。 「・・・・・・魅力的な転職先ですね。検討しておきましょう」 苦笑いして、私は答えた。 考えてみれば、情報将校の仕事は、集めた情報を吟味し選別してそこから的確な分析結果を出すことだ。 情報を食材に、分析結果を料理に置き換えれば、やっていることは料理人とそう違わないのかもしれない。 ただ、料理人は料理で人を幸せにできるが、情報将校は人を幸せにはしない。 少なくとも自分は、人を幸せにはできなかった。 「・・・お待たせです。これで買い物は全部ですな」 私は女に豚肉のパックを差し出す。 最初に女が買おうとした豚肉は、目方こそ同じで値段が一緒だが、脂の部分が多くあまり良い買い物とはいえなかった。 こちらなら脂身と赤味のバランスも取れていて、焼いた時の味も良いしコストパフォーマンスも申し分ない。 「ありがと」 女が礼を言って、豚肉をかごにしまう。 幾たびもの激しい口論の末に、ようやく私の食材を選ぶ目に全幅の信頼を寄せてくれたようだった。 「これからその娘さんに夕食をつくってあげるのですか?」 訊ねると、女は少し間をおいて考えてから、ええ、と頷いた。 それから、呟くように言う。 「勘違いしないでね。私は娘のためならなんだってするけど、それは私が勝手にやっていることよ」 意外だった。 自分から、こういう話をするとは。 女もまた、迷っているのかもしれなかった。 誰かに話したかったのかもしれない。人は全てを自分の中にしまっておけるほど、強くはない。 だがそれは、あくまで無意識の衝動だ。 その証拠に、女はすぐにはっとした顔をした。 こんな見ず知らずの危険な男に、自分は何を喋っているのかという顔だ。 警戒するのも当然だろう。 これ以上何も失うものが無い私と違って、この女には今守らなければならないものがある。 私は話題を変えるためもあって、胸ポケットからホログラフィー投影プレートを取り出した。 限られた資料の中から私が集めた、何枚かある写真のうちの一つ。 初対面の人間にこれを見せるのが、最近では習慣になっている。 「話は変わりますが・・・この写真の女の子に、見覚えはありませんか?」 女は写真を覗き込む。 「女の子って・・・・・・どっちよ?」 「子どもの方です」 「なるほど。この白い軍服を着ている方がお姉さん?母親にしては若いから」 「まあそんなところです。それから軍服ではなく制服と呼びます、旧自衛隊時代の名残だそうで・・・・・・」 そんなどうでもいい話をしながら、私も写真に目を落とした。 それは、学校の何かの行事でのワンシーンだった。 歳は離れているが、そっくりの顔をした美しい姉妹。 純白の第一種礼装をきちんと着込んだ彼女が、藤沢桜織というその少女とツーショットになるように長身をかがめ、二人で元気よくカメラに向かってピースをしている。 まるで太陽を燦々と浴びてアンダルシアにでも咲いているひまわりのような、眩しい笑顔だった。 「仲良さそうね、この二人・・・・・・」 微笑ましげにそう呟いた後、女は申し訳なさげに首を振った。 「ごめん、やっぱり知らないわ」 「・・・・・・でしょうな」 当然だ。 別にがっかりもしない。 「どうも今日は、色々とお手数をかけました。早く帰って、娘さんに美味しい夕食をつくってあげて下さい」 「ちょっと待って」 写真をポケットに戻して立ち去ろうとする私を、彼女は呼び止めた。 私は足を止める。 女はしばらく躊躇っていたが、やがて口を開いた。 「そのお姉さんの方は・・・・・・その、戦争で?」 「・・・・・・ええ。三年前に、タイタンで戦死しました。 私の責任でね。私が殺したようなものです」 後半は、勝手に言葉が溢れた。 私がこうやって藤沢桜織を探しているのは、彼女への贖罪なのだろうか。 さっきの女の言葉を思い出す。 ・・・『贖罪』だなんて、偽善者の口にする言葉だ。 こんなことをしていても、失われたものが戻ってくるわけではないのだから。 彼女は、私を許さないだろう。 これは単なる私の自己満足。 私がやりたいから、やっているだけの、私のための務めだ。 「ごめんなさい」 「ははは、貴女が謝ることじゃない」 私は穏やかに笑った。そう、貴女は何も悪くない。 三年前の彼女の死について罪のある人間がいるとすれば、それは私しかいない。 「ねえ、その戦死した人――」 彼女は、あなたの戦友なのか。 よくある質問だ。さっき近藤からも聞かれた。 私はいつもその質問に曖昧に返す。 最前線で戦闘をしたわけでもない私に、彼女の戦友を名乗る資格など無いからだ。 だが、次に女が口にした問いかけは、私の予想とは違っていた。 「――あなたは、その人のことが好きだったの?」 私は、答えられなかった。 黙っている私を見て、女は優しく微笑んだ。 「そう・・・・・・」 あの写真の中の彼女と、同じ優しさがこもった笑顔だった。 「それなら、その人は幸福だわ」 「え・・・・・」 「買い物に付き合ってくれてありがとう。おかげで娘と楽しい食事ができそうだわ。 ・・・・・・それじゃ、さようなら」 立ち尽くす私に会釈をして、女はレジへと歩いていった。 今度は、私に背中を向けて。 だがそれすらも私は気付かなかった。 ――そういえば、名前も聞いてなかったな。 後になってから、そんなことを思った。 私の横ではスーパーの店長がメガホンで今日の大特価商品のインドマグロ中トロについてがなりたて、さらにその横では99円ストアの袋で武装し刺身の試食コーナーにへばりついた主婦が二人、最近米国海軍の危険な実験で海の魚が汚染されている、いやそれは〈レギオン〉の仕業だなどと、怪しい噂話を繰り広げている。 試食コーナーの刺身が空になり、営業スマイルを引きつらせている従業員に主婦達がこんな汚染された魚は買えないと言い放ち、周りの客がこぞって心の中で、もしそう思ってるならどうしてそれを全部食べたんだとツッコミを入れる。 私はといえば、女が去っていった方向を見ながら、その言葉を考えていた。 やがて、首を振る。 よそう、過ぎたことだ。 横では騒ぎを聞きつけてアナウンスを中断してやってきた店長が二人の主婦に、普通の客には絶対に浮かべることのない機械的な冷たい微笑で、当店の魚は安全ですと告げている。その静かな迫力に、二人の主婦が気圧されて黙る。スーパーが平穏を取り戻す。 私はといえば、そんなスーパーを出て、空を見上げる。 外はもう夜で、空には星が出ていた。 どうやら天気予報は外れだったようだ。 この空が宇宙とつながっていると思うと、不思議な気持ちになる。 今日一日、色々なことがあった。 せっかく地球まで降りてきて何の手がかりも得られなかったというのに、不思議とがっかりした気分ではなかった。 何の進展も無かったが、何故だかゴールに近付いたような気がした。 また、心の問題だろうか。 私も随分と感傷的になったものだ。 だがそれも、悪くない。 贖罪にもならない、ただの自己満足。 それでも続けようと思う。 心の中で、名前も知らないあの女に感謝しながら、私は歩き出す。 始めてたったの三年。 諦めるには、まだ早い。 |
| もしも君のまもったものが すべて幻だったとしても 誰も君を責めたりはしない だから飛んでいくがいい もう一度 あの空へ 『星空のレクイエム』より Fin. VIVA the 100000th HIT of La gare terminus pour les Etrangers!! 注)本作品は『ELDER SISTER』及び神鏡学斗の『東京春香伝』とは別の作品です。 登場人物(キャラクター)や世界観などあらゆる類似に関わらず、両作品に関係はございませんのでご了承下さい。 |
| |
| Written by 水銀党 |